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第10章 東と西 (3)

にとっての 「さようなら」
 


「さようなら」 の別れのあいさつの言葉の音の響きは
 
私の耳には美しすぎて淋しすぎる
 
たまさか
 
「ごきげんよう、さようなら」 なり
 
「またお会いしましょう、さようなら」 なり
 
丁寧な別れのあいさつを受けることもあるけれど
 
なぜか知らぬ 「さようなら」 を言われるたびに
 
その音の響きが私の胸にひっかかりその胸を打つ
 
だからだろう
 
むかしっからの私の別れのあいさつの言葉は
 
「じゃあ、また」 くらいの曖昧さですましてきているのは
 
 
昭和六十二年十月二十六日午前十時、武蔵関の日赤病院に
 
脳梗塞で入院中の草野さんを見舞った
 
「心平さん、秀夫くんよ」 という付き人の言葉に私の顔をみとめ
 
「おお、おお」 の草野さんの一言だけ
 
特に話すべきこともなく時間がすぎ
 
病室を辞するにあたり
 
「次の仕事の約束がありますので帰ります。おじさん早く良くなって下さい」
 
 
うなづかれて痩せた右腕を 差し出して下さったものだから
 
私も両手でその握手を受け
 
「さようなら」 なりなんなりの言葉が
 
私の方から出ないからだったろう
 
なかなかご自分の握った手の力をゆるめては下さらない
 
 
「また伺います、また伺わせて下さい」 の私の言葉に
 
ようやく草野さんの握って下さっている手の力がゆるみ
 
されど私もその手を放しがたく
 
しばらくそのままで無言が続いた
 
 
「おじさん必ず元気になります、そしたらまた伺わせて下さい」
 
ゆっくり深くうなづかれた草野さんの目と表情を私は確認し
 
そしてやっと互いの手がはなれた
 
 
最後にお会いしたのは
 
その死の前前日だったが
 
葬式の日の火葬場でのお骨ひろいで
 
草野心平の骨がはじけた
 
 
いま思う、
 
私は 「さようなら」 をも言えない意気地のない男だが
 
あの時、さようならを言わなくてよかった、と