東西南北雑記帳
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詩の翻訳技術あれこれ
私の 「両眼微笑」
草野心平の 「両眼微笑」 が成立した背景につきましては以前に記しましたが、それ以降長い間その言葉がたえず私の思考のなかにあり、それから十数年たった1990年頃に、私のなかに一つのイメージが浮かび、「両眼微笑」 をタイトルにして、次の詩ができてきました。
殺したがために / 殺されることはない
殺されたがために / 殺すこともない
すなわち無 / すなわち空 / すなわち天
この詩を作った当初、徹底した虚無なのか何なのか、作者である私自身にも.説明のできない部分がありました。一般的にこうした事態は、私に限らず他の詩人たちにとっても、詩を作っている過程、特に短詩においては、良くあることのはずです。それで問題は、作者にも良くわからない部分のある詩を、どのようにして他の言語に翻訳し得るのか、ということに関して此処で考えてみました。
私自身、この詩の翻訳にかかる前から、その翻訳自体が非常に難しいであろうと踏んでおりました。それは、「両眼微笑」 をどう訳すかについて、翻訳にかかる前から気になっていたからでした。けれども、数の上で翻訳の体験を重ねてきていましたので、言換えの技術も身に着いてきていたのでしょう、しばらく考えた結果、これを
「デス マスク (Death
Mask)」 とし、また「天」
を
Sky や Space や Universe ではなくHeaven としましたら、一気に問題は解消されました。作品自体の出来不出来はまったくの別問題として、不思議なことに、客観的にみてこの翻訳された英文のほうが日本語の原文よりも、より具体的で分りやすくなっていることに気づいた次第です。
上記の言換えに関連して、私の詩のなかに
「博打」
というタイトルの作品があり、そのなかで私は、「死生眼」 という単語を使いました。この単語は国語辞典にも広辞苑にも載ってはおりません。この言葉は小島剛夕の劇画である 「子連れ狼」 に由来しております。子連れ狼の子供である大五郎が、あるとき敵の侍の白刃の下に置かれます。そのとき大五郎いまだ三歳、素っ裸、絶体絶命の振り上げられた白刃の下、大の字の仁王立ち、その眼は澄んで生とか死とかを遥かに超越した、冥府魔道の死生眼、と説明されておりました。
この 「死生眼」 の訳には参りました。和英辞典で
「生死」、「生き死に」、「眼」
などその他もろもろ、考えられる限りに言換えを試みて辞書に当りましたが、すぐそこまで来ているようでいても、なかなかこれといった単語に行き当れません。それで、最終的に
「半死半生」 で当りましたら、なんとものの見事、more dead than alive
に行き当りました。これは、しめた
・・・・・ それで、「冥府魔道の死生眼」 を with my eyes more dead than alive と英訳して、自分自身の腑に落ちた、という結果になりました。
自作詩の自力による翻訳ですから、内容がよくよく分っていての話で、それにしても、翻訳作業とは実に面白いものである、
と今更ながら思う次第であります。
参照: 「博 打」
の英文 = "A
Gamble"
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