東西南北雑記帳
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詩の翻訳技術あれこれ
奇妙な経験
詩の翻訳を続けてきてかなりに経験を積んできた頃、何度か非常に奇妙な経験をしたことがあります。それは、日本語詩を英語に翻訳し終ってがら、通常、訳された詩を原文から切りはなし、独立したものとして読み返しますが、そうしたとき、その訳された詩はものの見事になにも言ってはいない、ということを発見する場合があります。
それで再び日本語原文に戻って読んでみますが、原文はそれなりに詩にはなっています。そして、また頭を切り換えて訳文に戻ってみても、落度なくきれいに訳されているのです。詩的観点から再び検討してみても、何も言ってはいない、ということを再確認せざるを得ない場合があります。このことは誇張でもなんでもなく、そのとおりの実感なのですが、そんなとき非常に不思議な現象として実に奇妙な気分にとらわれます。
このことは、長いあいだ私の思考のなかに引っかかってきているのですが、言語間落差というものが確かにあるからかな、とも考えてみました。また思考形態の相違からなのか、とも考えてみました。が、そうした側面があったにしても、事態はどうもそれだけではないような気がします。いったいに言語とは、原初的な感情を運ぶ本能の部分から発して感情と共に、極めて高度な形而上的な思惟をも運搬するものです。それで、発せられた言葉は同時に、発した人の気分をも運びます。
―― 事態のポイントはどうも此の辺にあるように思われます。
自由律口語詩がこの国に出てきてから、既に100年をゆっくりと超えています。そして、現代は様々な試みの下、非常に沢山の自由詩が書かれています。ある意味では、現代詩といわれるものは、その数において、隆盛を極めている時代である、といい得るかもしれません。それで、インターネット上の詩のサイトや同人誌、あるいはアンソロジーなどを通じて、実に夥しい現代詩が私の目にも入ってきます。
ところが、そのほとんどは、口語という便利なことばを通じて 「気分を運ぶ」 だけに終ってしまっているのです。根源的な感動のないところに、詩は発生し得ません。また詩的技術のないところでは、読者と共にその感動を共有することはできないのです。巷間よく耳にする、現代詩はわからない、 あるいはむずかしい、という一般的で率直な感想は、この点に起因している、と私には考えられます。
何かを言っているようでいて、実は気分だけでその他には何も言ってはいない。そうした作品を一部では、これもまたもっともらしい評論家や.仲間内の解説で補われ修飾され誇張され、豊穣さのなかで.普遍を欠いた恐ろしく不毛で貧困な世界が展開されている、といい得るかもしれないのです。
(2004/02/11)
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