東西南北雑記帳
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詩の翻訳技術あれこれ
何を・如何に (3)

参 照:  日本語訳文詩 「アルバカーキーにて」
 英語原文詩
 "In Albuquerque"

  前回では他言語から一度英語訳されたものを日本語に置き換えることに関連して、俳句について触れましたので、今回はそれに続いて.短文について考えてみたいと思います。短文といえば、ハムレットの 「為すべきか為さざるべきか、それが問題だ」 や、シザーの 「犀は投げられた」 などが直ぐに私には思い出されます。一体に短い言葉は.印象に強く記憶に易い、という長点があると思われます。それでこうした短い言葉は.言語の相違にかかわらず.世界中に沢山残されていますが、それらはその言葉自身に.深い含蓄や教訓を宿しているがいるが故にも.多くの人々に記憶され.引き継がれてきているのだと思います。そうした伝統がありますので、短詩は作るのに非常に難しい技術的側面を持っている.と私は考えています。

     それで、たまたま今年の七月にアルバカーキーを訪れた際に、例によってニュー・メキシコ大学関係の詩のサークル Monday Night Poetry の研究会に出席したときのことについて.少し触れて見たいと思います。アルバカーキーに滞在中の一週間、私はニュー・メキシコ大学の正門まで歩いて十分ほどの,セントラル.アヴェニューにあるモーテルに.滞在しておりましたが、その滞在四日目に研究会があるので、何か私の自作詩で日英両国語での朗読をして欲しい、との要請がフィリスさんからありました。無論、その題材に事欠かない量の詩は持っておりますので、私は即座にオーケーをしましたが、二三日の余裕がありましたので、それではこれを機に新作の詩を披露してみようと思い、新しい詩を作ってみるから日中は放っておいてくれるよう、フィリスさんにお願いしておいた次第です。

  私の場合、詩は作ろうと思って出来てくるものではなく、思わぬ時に自然発生的に出来てくる場合が多く、意識して作る場合は非常に疲れます。まして旅の途中で.歓迎攻めのパーティーや.旧知の人たちとのミーティングなどであわただしく、それでも、空いた時間は宿の部屋にこもって.四苦八苦といった状態でありました。それで出来ましたのが、"In Albuquerque (アルバカーキーにて)" の詩でありす。詩がほぼ完成したのは.研究会当日の午前中で、未完でであってもあまりみっともないことは出来ません。最終的に.何時ものようにスペリングの確認です。最後の行は、the city of flatness で結んだのですが、この flatness が.携帯していたポケット版辞書には記載されていません。 「おかしいなぁ」 途端に不安な気分になり、フィリスさんのご自宅に電話を入れる。 「フィリスさん、通常 flatness って言いますか?」 「ええ、言いますよ。なんで?」 「いや、手許の辞書には記載されてないものですから」 「ちょっと待って ・・・ flat には名詞では apartment house の意味もあるし、形容詞では even とか・・・」 「そうしたことは分っているんです、ポイントは flat という形容詞に ness をつけて通常通り.抽象名詞として良いのか、辞書で確認したかっただけ」 「ええ、大丈夫よ」 それで、この詩はとりあえず完成、とした次第でした。

    研究会は非常に具体的に運営されており、出席者一人一人が.最近作の自作詩をプリントしたものを.メンバーにあらかじめ配っておきます。それで順次にその近作詩を読み上げ、各人は聞きながらその原稿を目でい追います。朗読が終ると、極めて自由で具体的.かつ活発な批評がそれぞれの出席者から為されます。こうしたスタイルの詩の研究会は.日本にはおそらく無いのではないか、と私には思われますが、参考までに私自身、今回の "In Albuquerque" の発表で経験したことを記します。   最初の批評は若い詩人からの非常に好意的なものでした。
     最初の批評は若い詩人からの非常に好意的なものでした第三連で表現されているサンディア山の自然描写は素晴らしい、特に山裾のなだらかさは簡潔に表現されていて自分もあの山裾を毎日見ているけど何時も気持が休まる、また全体的に色彩感豊かでで、その色彩感は Only women walking the street look so healthy and beautiful の部分に集約されている、というものでした。私はその行は私自身の実感であって、色彩を特別に意識はしていなかったが、そのように読んでもらえるのは意外で大変に嬉しい旨を述べた次第です。
   更に他の出席者から、表現について、 Joyness と言っているが、これは Joyousness のはず、という間違いが指摘され、また最初の一行目の Light blue of the corridor wall を Light blue corridor wall とした方が良い、という意見がありました。それで私は、音感からの指摘は良く分るが Light blue は下の行に現れる Brightness と関連しているので、と私は説明したのですが、「ああ、この二つの行はパラレルになってるのですね」 ということで、それ以上に議論は発展しませんでした。これは、音感をとるか文章構成をとるか、の二者択一の問題となるはずですが、結果として私は最初のインスピレーション的に沸いてきた.文章構成を重視し.音感的には多少ギクシャクしていても.文章構成の方を採った次第です。
    最後の批評は、ニュー・メキシコ大学の英語学の名誉教授 Gene Frumkin 氏からのもので、tatoo は tattoo のスペル・ミスである旨が指摘され、ニュー・メキシコ大学正門の前のレストランは Maggie's Restaurant ではなく Mannie's Restaurant のはず、というご指摘でした。Gene Frumkin のコメントが終ると同時に、それまでなんとなく緊張したような会場の雰囲気が、なにかしら会場全体の緊張感が解け.フーッと和んだような気がしました。

      このように、研究会は何時も非常に具体的で自由な発想の上に立ったものですが、作品の思想的部分にかかわるものに対する発言はまず無く、表現技術に関するものに限られています。もっとも、この研究会はニュー・メキシコ大学の講師、助教授のポジションにある詩人たちをも含んで.成り立っておりますので、知的にも非常にレベルの高い研究会であることに間違いはありません。研究会が終って後、フィリスさんが言って下さった 「此処では、これからは貴方をみんなが尊敬してくれるようになるよ、ハイ」 と言って下さった言葉が印象に残っています。

   だいぶ長い文章になってしまっていますが、結びとして更に続けなければなりません。帰国してから、インターネットのホーム・ページに発表するのに、最初から英語で作られたこの詩の英語原文を日本語に置き換えたのですが、翻訳の作業をしてみて、不思議な事に、訳文に対して全体的にどうもしっくり来ないのです。結びの最後の二行である

 Albuquerque,
 the city of flatness

については、自作の詩でありながら、翻訳の不可能なことを発見せざるを得ませんでした。それは、flatness に対する適切な日本語が無い、というところに起因しています。以前にも記しましたが、英語と日本語との間の大きな違いは、英語の場合、一つの単語が往々にして.まるで違った幾つもの意味を持っている事に.由来しています。フィリスさんが私の電話での馬鹿げたとも思える質問に、わざわざ辞書に当って答えて下さったように、flatness にはアパート、平ら、などなど非常に沢山の意味があります。そうした沢山の意味を複合して持った適切な日本語が無いのです。言葉とは非常に面白い、そう思い最後の二行は英語のまま残した次第です。

( 2004/9/26)

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