東西南北雑記帳
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詩の翻訳技術あれこれ
視覚と聴覚

前回このコラムにジェシカ・ロペスの2006年に収録された詩朗読のビデオ番組を YouTube より転載して掲載しましたが、その後彼女とメールにて連絡が取れまして、長い間懸案になっておりました私の 「クレオパトラ」 の女性による朗読を英語版に10月1日付で収録することに成功しました。無理かな?とも思いましたがジェシカ・ロペス氏との折衝は編集を担当して頂いている山田美智さんにお願いしました 。9月5日付のこちらからのメールによる要請に翌日には、この詩であれば直ぐにでも読みましょう、との返事で簡単に話は決まり、その後2週間ほどで音声が届き10月1日付の Poetry Plaza の公開に急遽間に合わせた次第です。

さて、50年くらい昔、ブレンダー・リーという女性シンガーが爆発的にヒットした頃がありました。ビートルズよりも前でエルヴィス・プレスリーの最盛期のころではなかったかと記憶しますが定かではありません。ブレンダー・リーの非常に独特で 爆発的なパンチの効いた歌い方はそれまでにはなく、私の大好きな歌手の一人でしたが、その後にも第二のブレンダー・リーは現れてはおりません。ジェシカ・ロペスの詩朗読のパフォーマンスを YouTube で見たときに私はブレンダー・リーに感じたものと同じような一種の衝撃を覚えました。成程こういう仕方の朗読もあるんだ、と思った次第です。そんな経緯から始りまして、今回は詩が私たちの視覚と聴覚の及ぼす影響と効果について日ごろ考えていることを纏めてみたいと思います。

詩はことばの芸術でありますが、ことばたる詩が伝達されるためには二つの方法があります。一つは文字によってであり一つには音声によってであります。どちらが優れているというのではありませんが、文字によって私たちのなかに入ってくる情報は音声によって入ってくるそれとは、私たちの内部での情報処理方法においてかなりに異なります。聴覚によって私たちのなかに入ってくる音声情報は私たちの感情に直裁的に訴える部分が強いのですが、それに比べると視覚による場合にはより複雑な過程を経て判断されています。つまり、視覚をとおして私たちのなかに入ってくる文字からの情報は、 私たちが過去に経験した感覚をも動因して判断されます。つまり、文字からの情報は私たちの臭覚、味覚、触覚、聴覚といった他の感覚器官をも動員してより複雑に作動しているはずであります。

さてそれで、 歌謡という音の世界について考えてみます。言わずもがなのことですが、歌謡曲は音楽の世界であると同時にことばをも伴って独立した 分野を形成しています。また浪曲、講談、漫才なども上げられるでしょうし、更には歌舞伎など演劇といった優れた伝統 に根ざした文化をも私たちは持っています。けれども此処では、現代詩について考えてみたいと思います。

その精神に於いて私の敬愛する詩人の一人に細谷彬 (1925-1995) があります。弊履破帽の学生時代に朔太郎に耽溺していたことがその詩集のなかに述べられておりますが、朔太郎的なもの (フランス象徴詩的なもの)または朔太郎に影響された作品ははなく、その様々なスタイルにおいても内容においても闊達自由で歯切れのよい独自の詩の世界を展開しています。この詩人の作品のなか に 「分らない詩」 という散文詩があります。そのなかの一節で

詩人の詩を読んで分らない いくら力んでも分らない まして一般の人には到底無理である (中略) 口語には偏差値の違う二種類の口語があるのか

と言っています。このことの一つの原因は端的に言って、多くの場合その表現技術において、現代詩が文字による表現に頼りすぎているからだ、と私には思われるのです。 このことは肉声を欠いているということにもなるのですが、無い知恵をいくら絞ってみてもその表現技術に欠けて渾身の思いも空回りするばかりて奇妙な言語空間を作り出しているのではないでしょうか。h表現技術の問題もあるのですが、哲学もないのにむつかしく哲学ぶってみたりするから思いは空転して奇妙な口語の世界を作りだしているのです。屈折した思いといわれるものをもっともらしく振りかざし、原初的な感動もなく、詩のスタイルをとれば、それが詩であるという錯誤に陥ってしまっていることが大きな原因であろうと私は考えています。 多くの詩人たちは、究極的には所謂さまざまな思想体系にちょっと寄りかかって普遍からは程遠い世界を醸成して行っているのではないでしょうか。

表題に関連して私は YouTube での詩の朗読番組をかなりに見ながら考えてみたのですが、日本語でも英語でもかなりの数の詩の朗読が公開されています。それで、朗読しながらのジェスチャーには両国語の間に大きな違いがあることに気づくのです。古典的オペラから出発してアメリカで創り出されたミュージカルの世界をも私に考えさせました。そして、ジェシカ・ロペスがもしもビデオでの録画で私の 「クレオパトラ」 を朗読したらどんな振り付けを伴ったものになったろう、とも思った次第であります。彼女の朗読での振り付けは自分自身の考案になるものでありましょうが、ブロードウエイに縁があったら彼女はその桧舞台 の俳優としてでも成功し得る才能を持った人物ではないかとも思われるのです。

(その昔、私はニューヨークはミュージカルの本場であるブロードウエイで 「キャッツ」 と 「42番街(42nd Street) を観ましたが、この経験は新しいものを創り出すアメリカのエネルギーを肌で私に感じさせるに十分なものでありました。 楽しみながら私は非常に感動しました。)

今般、ジェシカ・ロペスとの出会いにより、私には詩の朗読も新しい領域を創り出す方向に向っている、とも思われるのです。 Poetry Plaza も此処まで来た、やってきて良かった、まだ先がある、やって行こう、とも考えている次第であります。

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