リトアニアからの叫びと祈り
リトアニア詩の幕開け アニア詩に於ける国外追放の経験
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現代リトアニア詩について
Komelijus Platelis  
横川 秀夫 訳)

    「現代」 という言葉はカッコ付で表示されるのが最も適切である、何故なら私がこの言葉を使うのは、詩的言語を新しくする常なる努力の場合を除いて、特定の美学を定義するのに使うからであり、或いは特定の時代を指して言うからである。然しそれは、むしろ多かれ少なかれ、それがソヴィエト時代に、政体の是認する詩形に対し対立する立場の概念として.使われたと同じ方法に於いて使われている。私がそうするのは.忘れ去られた論争を蘇らせようとするのではなく、その成果が我々の現在の創造的努力の中に於いて、依然として明白である.あの我々の公的言語の大いなる復活を心に呼び起こさんとする為である。

    ある人々にとっては、世界とその読み書き能力からの反響は.いつもモダンであり新しいものであろう、しかし旧世界に於いては.そうした新しさはいつも条件次第なものなのである。ほとんどの革新者たちは自分自身の経験に薄い色付けをし、その本質を変えはせずに、昨日の決り文句から詩を解放し、忘れ去られた古い文体論を復活させる。彼らの詩的表現の振り子は、厳格な形式的標準から.完全な表現の解放状態へと向い、また、むしろ 「美しい言葉」 としての詩の思想から手品的な構造にも似た何ものかに向い、つまり、客間での遊び或いは観念論的なもてなしから.或いは歴史倫理学的存在の考慮などから、根本的な存在に関する質問の斟酌に向って、簡単な一行には収まらない。振り子の動きは反響し、時として一つの時代.あるいは他の時代に流行していた文体論に.名前をつけることも可能である。ソビエト時代のモダニズムの概念は、我々を新しいものにばかりでなく、同時に 「新しい」 作品が認められ確定され得るという.詩の有益性にもリンクされていた。この意味に於いて.当時の クリスチジョナス・ドネライチス は我々の詩の最も偉大なモダニストであった。18世紀後半に書かれた.ヨーロッパの詩の様相の中で、田舎の農民の生活を描写した.六歩格詩 「季節(The Seasons)」 は疑いもなく新しい驚異ではなく、主としてその当時までのフォークソングから成り立つ.リトアニア詩の内部にあったのであり、それは全くに新しくまたありのままに.言語の本質的な詩的現実であった。

    リトアニア詩は古くからのフォークソングの深い伝統を持っている ― リトアニア科学アカデミーの古記録には.およそ50万のフォークソングの原文が含まれている。これらの歌は主として.リトアニアの抒情詩の伝統を形成している、何故なら歌は現実を描写するのではなく、できるだけ多く.その歌と主題との関連性を表現するものだからである。世界を言葉で表現する ドネライチス はリトアニア叙事詩の鋳造者であり、或いは恐らく、リトアニア叙事詩の継承者である、何故ならリトアニアに於いては叙事詩は.ラテン語ないしポーランド語で書かれていたからである。多分、中世に於ける偉大なる大公たちは.その戦いのために.自分たちを褒め称えてくれることを誇りとしていた.ヴァイデロスと呼ばれる叙事詩人を擁し、後の時代に残り得ない、或いは後に抒情歌に発展して行った.かなりの量の叙事詩があったに違いない。「季節」 が現れたとき、叙情と叙事という二重のリトアニア詩の伝統について.このように語る事と、それぞれの詩人の作品を両者の係わり合いの結果として語る事が.既にして可能であった。ドナライチス派のもう一人の伝統の継承者としての アンタナス・バラナウスカス についても同じように言う事が可能である。消滅しつつあるリトアニアへの暗喩として.19世紀後半に書かれた バラナウスカスの詩、「アニクスシアイの丘」 は、特にポーランド詩を知っている人にとっては、新作あるいは原作とは考えられない。が、それでも尚、音節よりなる作詩法を用いて書かれているこの詩の独特にして素晴らしい言葉は.原作性と斬新性についての疑義を上回るのである。これらの両詩人の作品はヨーロッパの古典詩に影響されていた。

    19世紀末と20世紀初期、浪漫的なマイロニスの作品は恐らくリトアニアのフォ−クソングの伝統とヨーロッパの音節配列の詩形とを組織的に融解させ、多くの人々にとって マイロニスはリトアニア詩人とは何であるかについての.一般的シンボルとなった。彼は我々の詩の、形式の武器庫の応用という意味においての、古典的段階の進化を完成させた。

    モダニスムの概念は.20世紀の新しい芸術的潮流に繋がっており、我々は、その名辞を表す表現を使用するとき、その重要性を無視し得ないであろう。こうした潮流は多かれ少なかれ.遅れてリトアニアに到達した。今日的なその言語の意味での最初の モダニスト たちは マイロニス の直後に続いて30年代に自分自身を表現し始めた。彼らは未来学派 "Four Winds" のグループを形成し、その最も傑出したメンバーは カジス・ビンキス、 シギタス・セメリス そして ジュオザス・チスリアヴァである。彼らに並んでのフォークソングの伝統とヨーロッパとロシア象徴主義を採用した.他のオリジナルな詩人は、 リトアニア語とロシア語とで書いた ユリギス・バルトサイチス、 ヴィンカス・ミコライチス・プチナス、 バリス・スルオガ、 ファウスタス・キルサ、後の ジョナス・コッス・アレクサンドラヴィシウス (ジョナス・アイチチス)、 ベルナルダス・ブラズジオニス、売れない右翼の "Third Front" に拠った作家の サロメジャ・ネリス、 アンタナス・ミスキニス、そして ヘンリカス・ラダウカスであった。彼らを モダニストと呼ぶにことには困難さがある、何故なら彼らは ポスト・マイロニス派のリトアニア詩の伝統を.携えていたからである。最尖端的にモダンではないにしろ、彼らはヨーロッパ詩の中にインスピレーションを見出さなかったのであるが。

    広くモダンであると呼ばれ得るいま一つのリトアニア詩の潮流は、ディアスポラによって創造された。そこでは第二次世界大戦中にソビエトによる占領から逃れて.広範囲に渡る.一部のリトアニア知識階級は自分自身中にソビエトによる占領から逃れて.を発見した。彼らのうちで最初にあげられるのは カジス・ブラドナス、 ジョウザス・ケクスタス、 ヘンリカス・ナギス、 アルフォンサス・ニカ・ニリウナスらの "Earth (Zene)" アンソロジーへの参加者であった。彼ら並行して活発に活動したのは、ジョナス・シスチス、 ヘンリカス・ラダウスカス、 リウネ・ステマ、 ジョナス・メカス、そして自分自身を 「飾らない言葉の世代」 の詩人と自らを呼んだ アルギマンタス・メッカスであった。彼らはリオトアニア精神をモダンな世界の詩形式に融解させ、また後にリトアニア語で現代詩を書く基礎を準備したと言い得るのであり、この事について此処で幅広く述べてみたい。

    我々のモダニズムは.中部ヨーロッパに特有な様々なモダニズムとはやや異なったものであった。それは戦後、ソビエトの影響下の地域に於ける国々において生れ、全体主義政体の公式芸術に敵対し、「ソビエト・リアリズム」 と一般的に言われる方法に従って創造された。それは芸術的方法ではなく、より単純に言えば少なくとも、作家に対する無作法なイデオロギーの先決条件を芸術的な形式の中に押し込み、非人間的な政体を賛美するように要求する.改良された思想的強制であった。ソヴィエト・リアリズムの理論家たちは.自分たちの教義で美学を封じ込めようとはしなかった。

    形式的な量ることができ満足のいく或る種類の 「一般的な」 詩の概念である社会主義者のリアリズム詩は 「言わずもがな」 の事として残った。戦後の十年間、正確な定音節配列の脚韻を踏む事と.暗喩的な曖昧さを避ける事をも通じで 「このシステム」 は美化されなければならなかった。母性的感情、友情、人類愛の賛歌、或いは自然のイメージへの詩的な喜びですら 「現実からの逃避」 のレッテルが貼られ政治的犯罪と考えられた。(この事は政府内部の少数の狂人の気まぐれではなく、自然な一人の人間を歪曲し、その知性を変形し、操作され得る機械にと変換する事を目的とする 「このシステム」 の一貫した政治的規制であるという事には留意しなければならない。)1946年から1956年の年月は.最も野蛮な形式主義の期間であった、然しながらそれは如何なる美学的原理にも支持されない形式主義であった。「反形式主義者」 とは詩人を指して言うのに当時には最も恐ろしい言葉であったことは興味深い。つまり、それはその詩人をしてシベリヤへの旅へと導き得る十分な 「犯罪人指定」 を定義したのである。そうした詩に初期の文体へのレッテルを貼り付けようとする企ての中で、私はそれを詳細な形式を使い明確性と独断的なプロ・ソヴィエト美学を作家たちに要求する、見せかけの古典主義と呼ぶ。

    特に留意すべき作品を上げ、典型的な時代の教訓を定義して 「空虚」 とする事については既に十分に記した。戦後の我々の状況は.ヨーロッパのこの地域に於いて、19世紀の浪漫主義を誕生させた状況に似ていた事に気付くのは.さして困難な事ではない。例示すれば、広範な官僚的制度の下にあり、人民の運命を冷酷に支配する、外国の官吏と国内で育てれれたその協力者によって運営される、弾圧政治や検閲制度等々の巨大な制度を永続する、外国の帝国によって奴隷化された国家の状況である。この経験は厳密には、国家の理念を組織的構成単位として具体化し、現存する 「制度」 に於いて連帯意識を強化するための触媒であった。それは人々の考え方に影響を与え得ずにはおれなかった。従って、リトアニアと移住地に於いては.正当に浪漫的と呼ばれるかなりの量の文学が創造された。それは母国、国家、精神、大地、パンそして経験と願望という.共用される概念の使用によって特徴づけられている。あの浪漫主義の中に.田園詩と呼ばれ得る典型的なリトアニアの潮流を発見する事が可能である。それは謙虚な理想と長引く論争の欠如という.あの同じに共有される概念の享受によって特徴づけられている。国家にとって欠くことの出来ない活力である忍耐と叙情性は、(実はこの事は検閲によって禁止されていたのであるが) 浪漫主義の特質である自由、尊厳そしてより高い精神的あこがれへの願望について話す事を常にさけながらも、当時のこうした事柄の悲しむべき状況は痛々しくも明確になるったのである。田園詩的浪漫主義を採用する事は、実に単純で不正直であるように見え、そうした考え方に属すると自認する人々をも含みほとんどの詩人たちに見られたが、依然として彼らは検閲によって他のすべての人々から隠されていた。この事は詩的革新を力づける影響力の一つであった。

    しかし、此処で形式性の問題に戻ろう。1956年に エドアルダス・ミエゼァイチス はその詩 「男」 によってリトアニアに於いてばかりではなく.ソビエト全土に於いても、内容が思想的に受け入れられるのであれば.形式は詩人が望むどのようなものでも良いのか、という難しいな質問を検閲制度に対して提示した。長びいた論争の後、検閲当局はたじろぎ引き下がり、ミエゼライチスは1962年にラテン賞を授与された。詩に対する支配は緩みはじめ、隠喩と形式の基礎の上に構築された意味により.好戦的なリズムの中に組み立てられた言葉の空虚な響きはほつれ始めた。

    エドアルダス・ミエゼライチス は現代リトアニア詩の歴史の中では独特の人物である。彼は後に続く人々のためにその根本を提供した改革者であり、形式の師であり、韻律法の名手でありロマンチックな象徴派詩人であり唯美主義者であったが、彼自身は言葉の奔流の中に詩の真珠を押し沈め、極めて易々とそうした表面を滑走しただけであった。その浪漫的な論説の中で、美しく意味深長で世俗的な言葉は泉の中の金魚のようにきらめいたが、そうした下に大理石で覆われた硬い凝固物を感じることができるのである。

    ミエゼライチス と共に、キビリウス博士が指摘するように、「出来立ての山のようなくだらない事実と流行の個性のごみくずの下から.詩の根源を掘り出すことは可能である」 のである。そうした詩人は パウリウス・シルヴィス、 ジャニナ・デグテイテ、 ジュスチナス・マルシンケヴィシウス、 アルギマンタス・バルカイチス、 アルフォンサス・マドニスそして アレキシス・チュルギナス である。社会主義リアリストの形式主義によって不毛化された.人間の経験の意味を詩の中に盛り込むために、単に詩的表現の新しい旋法を発見するのではなく、現存するものを 「意味ありげにする」 事によって、彼らはこれをもっと伝統的な方法で成そうと試みた。彼らのうちの幾人かは、後の伝統主義者のように田園詩的浪漫主義の耕地を広げた。

    リトアニア国内で出版された詩を読むほとんどの当時の若者たちは、1956年以降の詩はあたかも何処からともなく現れ始めたという印象を持った。が、これは事実ではなかった。幾つかの古典の書物は出版され、或いは海外からの放送によってもたらされた。 ベルナルダス・ブラジオニス、 ヘンリカス・ラダウスカス、 ジョナス・アイスチス、 アルフォンサス・ニカ・ニリウナス あるいは ヘンリカス・ナギス らの詩はときおり我々に届き、手書きあるいはタイプによってコピーされ伝播された。詩的伝統は断絶されずむしろ地下に潜ったのである。当時のリトアニアに於いては.今日以上に誰が誰であるかについて知られていて、一人の名前をもってあからさまにその知識を表現することは許されなかった。終戦直後から、政体に抵抗する心の隠れ場所の中に深くもぐりこんだ詩と評論は、社会主義リアリストの制服をまとい洗練された合図のシステムによってそれ自身を押し隠したのである。この事によって思想に於ける原作者とのコミュニケーションが可能となった。プロレタリアート集団が要求する.直接対話の同じ揺りかごの中に於いて難解な詩が形成され始めたのである。

    1971年から1972年にかけ、社会主義リアリズムに対し死の嵐に火をつけ、現代リトアニア詩は遂に地下から現れ出でた。それは当時の詩集によってであり、 アルビナス・ズカウスカスの 「オープニング」、 ジュディア・ヴァイシウナイテの 「反復」、 シギタス・ゲダの 「秋と夏の23篇の賛美歌」、 ジョナス・ジュスカイチスの 「私の運命によって封印された青い野の花」、 マルセリウス・マルチナイチスの 「心の灯火」 「目の黒いうちに」 そして トマス・ヴェンクロバの 「会話の合図」 が現れた時であった。同時に此処で幾つかの早期の詩集について言及する事は適切であろう。それらは、 ヴィタウタス・ブロズの 「沈黙の大地から」、 シギタス・ゲダの 「足跡」、マルセリウス・マルチナイチスの 「太陽に帰れ」 A.マシオニスの 「神々の目へ」 そして ジュディア・ヴァイシナウテ の初期の作品群である。 ゲダ は スカウスカス より31歳も若く、このグループは単一同世代の詩人からは成り立っていない。然しながら、我々の詩的言語を復興させ、嘘の詩を一掃し、出来得る限り明瞭に.個人の現実を描写しようとする意図において結ばれていた。それは簡単な試みではなく、真実を話したがために人々は捕虜収容所に投獄され、圧政と特権の複雑なシステムは芸術家を.ソビエト・イデオロギーに奉仕するよう強制しそそのかした。このように、詩人たちは、自分の想像能力が花開く自分自身の現実を創造しなければならなかった。個人的なスタイルを決定したあの現実は一つの文化的様相であり、一方では詩人が過去の検閲の税関を意味するところを好意的に隠し通し、また一方では.詩人が事象の核心に到達する道を開けていた。より明確に現実を表現する隠喩を追求しながら、詩の形式は高められた。何故なら、隠喩は現実の表面を伝えるばかりでなく、その最も深遠な関係性(構造)と詩の読者に対するあの深遠な計画は.直接的表現を通じて提示される最も明白な情報よりも.更に重要であるからである。これは詩の形式とイデオロギーが社会主義レアリズムを破壊する創造性に効果的に向かい合い得たからである。

    これは詩的言語を新しくする努力が如何にして特別な道徳的規範を習得したかという事である。私が 「特別な」 と表現するのは、西欧のモダニズムにもまた.陳腐で偏狭な世界のイメージとこうしたイメージを増殖させた.商業美術と戦う道徳的規範があったからである。ちらが真実の収容所でどちらが嘘の収容所であるか選択する.唯一の変るべき手段を持たなかった。

    私は我々のモダニスト詩人たちを英雄、殉教者或いはチャンピオンとして描写したくはない。思想的な譲歩をして検閲をうまうまと馬鹿にした彼らのうちの一人以上の詩人は.同じように自分自身を馬鹿にする結果となった。何故なら、自分の作品を出版しようとするなら.検閲はすべて避けられないからであった。困難な時代であった。ソビエトのシステムは人生のすべての局面をきちんと握っており、我々を占領していた帝国は.非常に断固としたものであったが為に.戦後に生れた極めて少数の作品も.その消滅を見る事を想像すらしなかった。条件付で現実を表現しようと試みる時ですら、詩人たちは、大部分が検閲制度の下に置かれた芸術への財産として.競技規則によってあらかじめ決められていた.そうした条件を提示するためには.その才能の力を使って何とかしたのであった。おそらく、リトアニアに於いては地下にもぐった純文学 (自費出版のこと) はほとんどなかったのはこの事に起因している。私が 「ほとんど」 と言うのは、特に詩に関してはそうした自費出版本は確かに現れたてはいからである。 「リトアニアに於けるカソリック協会の記録」 の出版社を続行する間に得られた.特別な努力と経験の故に.アングラ詩は存在しなかったと幾人かの人は説明する。また一方、他の幾人かは、我々の作家のコミュニテーは.比較的に小さくそのため彼らは個人的に互いに知遇を得、最新作品或いは移住した詩人たちの作品を知り得たとも言う。特に詩人たちには法的手段を通じてその要塞に打ち勝つという希望を与えながら.検閲制度の条件は常に変化した事を記録することもまた重要である、と私には思われる。それは短い道でも滑らかな道でもなかった。その下に強制労働収容所、アルコール麻痺、自殺、命にかかわる 「不幸な事故」、狂気の精神病院、自殺といった、社会主義者の現実の地獄が広がる検閲によって許された.事柄の変化する境界の上に均衡をとる、真実の収容所を選んだこうした作家(モダニストに限らない) の苦難を説明する事は極めて困難である。政治的理由によりみずからを生贄として.1972年に カウナスで死んだ ロマス・カランタ の後、反動の圧力が復活し、多数の出版は少なくとも10年は延期された。けれども、私が言及した書籍が現れた後には、社会主義者リアリズムについての深刻な論議はジョーク以上の何者でもなくなった。

    1970年代80年代には、モダニストたちは一つの文体論をも実践しなかった。 ヴィタウタス・ブロゼ は自由律詩の偉大なる熟達者である。彼の詩のリズミカルな形式は初期のどのような構成にも拠ってはいないが.驚くほどに調子が良く、その作品の中のしばしば慎重に暗号化された思想は.我々のグロテスクな社会主義者リアリズムの現実から遠く離れて押し流されてはいない。シギタス・ゲダ は自然と文化との合体の中に情熱的に歌う.本質的自然発生的な汎神論詩人である。ジョナス・ジュカイチス は書家であり宝石細工師であり詩的表現法の研磨職人であり、その思想はわかりにくい独創的な詩形によって隠され明瞭化されている。マルセリウス・マルチナイチス はフォークソングの伝統に近い詩人であり、詩形の巨匠である。ジュディア・ヴァイシナイテ はイメージと音楽の要素を巧妙に結合させる.巧妙な印象主義的情感の詩人である。その作品は現代詩の隠喩的な強烈さを示すが、トマス・ヴェンクロバ は自分自身を新古典主義者と表した。アルビナス・ズカウスカス は民話の形式を詩の中に取り入れた神話の歴史の咄家である。

    並行して、これらの著者はモダニストと呼ぶには困難ではあるが.リトアニア詩に対して注目すべき貢献をした幾人かの.より伝統的な詩人について書いた。オナ・バリウコニテ、 ブラダス・ブラツスケヴィシウス、 ヘンリカス・シグリエウス、 ジャニア・デグチテ、 スタシス・ジャナウスカス、 ジョナス・ストリエルカス、 アンタナス・ヴェルダ等であった。

    1970年代にデビューした詩人たちは.詩とは何であるべきかについての社会的観念を粉砕した。グラジナ・シエスカイテ、 ロマス・ダウギダス、 ジョザス・エルリッカス、 アルミス・グリバウスカス、 アンタナス・ジョニナス、 ドナルダス・カジョカス、 ヴィタウタス・ルバヴィシウス そして最後に筆者 コルネリウス・プラテリス である。それはソビエトのイデオロギーで溢れた世界で育ち.従ってそれに対して何らの感情をも義務をも感じない.従来からのイデオロギーを持たない世代であった。特にこれらの詩人の最初の本にはニヒリズム、すべての事柄に対する軽蔑.そして中央ヨーロッパ特有のユーモアが盛り込まれていた。然し知識は多くを世界に一致させる − ソビエトのシステムのようなシステムですら、如何に完全な全体主義であろうとも 「世界」 の小さな一部を占拠するだけであって.自由な精神を制限する事は出来ないのである。この調和の中には何か学術的合理主義の対策がある。

    1980年代にデビューした詩人たちは.精神的には70年代と同じ世代に属している。ヴラダス・ブラジウナス、 ニジョレ・ミリアウスカイテ、 ロランダス・ラスタウスカス そして マルカス・ジンゲリス である。幾人かの若手たちもまた.この時代に最初の詩集を刊行している。ユウジェニウス・アリサンカ、 ヴァルダス・ダクケヴィシウス、 ヴァイドタス・ダウニス、 リウドヴィカス・ジャキマヴィシウス、 エドマンダス・ケレミッカス、 ユリウス・ケレラス、 アイダス・マルセナス、 ケスツト・ナヴァカス、 シギタス・パルルスキス、 トマス・ルドカス その他である。 これらの若い詩人たちは、その大部分は言語に対する強い感覚を持ち.形式性を良く把握した本来の詩人あるが、本質的に我々の詩の外観を変える事はしなかった。全体として、若手年配の両詩人たちの作品を念頭におき考えると、70年代と80年代は我々の詩のルネッサンスを形成している。その明るいデカダンスと共に美、唯美主義、詩的探求と発見の意味において、この時代は20世紀を暗示している。

    ソビエト時代に存在した.社会の状況と19世紀に西欧浪漫主義の誕生を与えた状況とを.私が既に比較していたとしたら、また文学に於けるその反映を見極めていたとしたら、我々の現代詩の中に何かしら早期の文体上の間に合わせを見つけられれば実り多い事であるかもしれない。数多くの後者の特徴は、標準を拒否した結果として.詩的慣習を衰えさせる純粋な形式性の無視、言語、歪みきった風紀、厭世的で神秘主義的な感傷、皮肉な言葉、異様なものへの興味、多面的意味論学者といった.バロック文学を思い出させる。此処につまらない作品を用いる幾人かの詩人の嗜好を付け加えるならば、これらの特徴はモダニズムに帰し得る事柄に極めて類似してくるであろう。然しながら、後者は我々の詩を特徴づける十分な倫理的精神的感性を欠いているように私には思われる。この節に於ける比較がすべて網羅されている.と理解して、我々の散文に重要な影響を与えた同時代の ラテン・アメリカ の文学とバロックの間の比較について言及したい。 発展という時計の振り子の揺れの.或いは社会政治的な独裁性の結果として、こうした進歩がどれだけ進歩にに寄与したかについて考える事は可能であるが、この事はここでの我々のテーマではない。

    構成の原理により、現代詩の発展に於いて条件付で二つの方向を示す事は可能である。一つには、その隠喩的多様性がどのようなものであっても、純粋の詩とは単一の隠喩として作用する閉鎖構成によって特徴づけられる。これに属するのは ヴィタウタス・ブロゼ、 シギタス・ゲダ、 ニジョレ・ミリアウスカイテ、 ジュディア・ヴァシウナイテ、 トマス・ヴェンクロヴァ、後の アルミス・グリバウスカス、 アンタナス・ジョニナス、 ジョナス・ジュスカイチス、 ドナルダス・コジョカス、 マルセリウス・マルチナイチス と筆者自身である。今一つの方向はその紐の両端は結ばれてはいないが.イメージと隠喩があたかも紐のようにリンクした.芸術的表現を贈呈する解放構成の詩である。これは上記で既に私が言及した幾人かの詩人の初期の本に見られる特徴であり、グラジナ・シエスカイテ、 ロマス・ダウギルダス、 アヂダス・マルセナス、 ケツチス・ナヴァカス、 ギンタラス・パタッカス、 ロランダス・ラスタウスカス そして ヴィタウタス・ルバヴィシウス らの作品の中に見られる。これら二つの詩形式を相違を示すことは難しいことではないが、それぞれの詩人は両方の形式で詩を書いているため、様々な作品名を詩人名とについて述べることは困難である。かてて加えて、解放構成とは、作者が十分に詩の素材をコントロールし得ず、十分に成功しているとはいえないほとんどの詩の特徴である。最初の詩形式は比喩の多い、叙事詩的なドネラチス派の作品に結びついたものであり、第二のそれは叙情的なフォークソングの作品である物語性に結びついている。

    最近、我々の詩への情熱はやや沈下してきており、定期刊行物は強制労働収容所の囚人、国外追放者そして パルチザンの悲劇的な経験についての自然な詩を出版している。ソビエト占領軍と戦い森の中で死んだ ブルニウス・クリヴィッカス や シベリヤに抑留された アンタナス・ミエキニス の作品のような絶対的な大作に並んで、芸術的に自分自身を識別しない力のない作品がある。 リトアニアで創造される文学と国外逃亡のコミュニティーとの間の芸術的障害壁は消滅し、すべての主な移住詩人たちの作品はリトアニア国内で出版されてきた。自費出版の本はどんどんと頻繁に現れており、それらの中には古典的なグラフォマニア(濫書狂)の古典的な実例もある。リトアニア詩は我々の社会での精神生活に於いてもはや支配的ではなくなっており、西側世界の中でこの芸術形式が保有する同じ場所へゆっくりと立ち退きつつある。


From Lithuania: In Her Own Words, 
edited by Laima Sruoginis 
(Tyto Alba, Vilnius, Lithuania, 1997)  


    本稿の著者である コルネリウス・プラテリス は1951年にシアウリアイに生れた。1973年にヴィルニウス建築研究所を卒業後.1988年まで ドルスキニンカイ の町で技術者として働いた。5冊の詩集と1冊の随筆集、数多くの記事、評論集を出版し、T.S.エリオットと エズラ・ポンド その他の詩人の作品をリトアニア語に翻訳した。また、聖書の新しいリトアニア語版への注釈書の作成にも尽力した。今日ではリトアニアの最も活動的な詩人の一人である。 「公式の」 主催の詩の催しであるドラスキニンカイ秋の詩人会議の設立者であり.オーガナイザーである。その第一詩集を発表するや、読者と評論家のすぐに注目するところとなった。その詩は深い知性の声と創意に富んだ古態型と神話の駆使によって注目される。それは一方では政治的言明的スタイルの混合であり.また他方では超自然的な激しさと形而上学的な疑問の混在である。リトアニアのペンクラブ会長を務め.また1991年から1993年の間.リトアニア政府の文化教育省福大臣を務めた。1996年よりVEGA出版社の理事。