マハーパジャーパティも姉と同じように影であった。スッドーダナに添う影はシッダルタをも包んでいた。
マハーパジャーパティィはシッダルタの無意識のなかにある寂寥に気づいていた。彼女は限りなく優しかった。彼女は優しさだけがシッダルタの寂寥に処し得るものであることを良く心得ていた。
スッドーダナもまたそれに気づいていた。
太陽の末裔・シャーキャ族にとって、憂愁と悲しみの涙は不文律の禁物であった。寂寥と憂愁を取り除こうと、あり余るスッドーダナの財は惜しみなくシッダルタに注がれ
ていた。三つの宮殿、聖なる水で満たされた三つの池、三色の蓮の花々、白檀の香、カーシー製の絹の下着と衣服そしてカーシー製の靴、
大きな白い傘蓋
。 選び抜かれた侍女たちの献身。
マハーパジャーパティは、どのような物もシッダールタの憂愁を取り払うことはできない、とスッドーダナに言った。妃を娶らせよう、スッドーダナは言った。バラモンの娘ヤショーダラが選ばれた。
ヤショーダラは十三の言語を正確に読み書き聞きわけ話すことができた。彼女はまたシッダルタと同じように古来からのすべての聖典と詩歌に精通し、それらの細部に渡るまでを諳んじていた。
スッドーダナはヤショーダナに、何が一番に欲しいか、と尋ねた。ヤショーダナは言った、シッダルタのほかに欲しいものはない、ただ図書の蔵が必要である、と。古代からのあらゆる聖典あらゆる哲学書そしてあらゆる詩歌集は収集され、シッダルタ
が育ってきた三つの宮殿 に付け加えられた。
婚儀の祝いの貢物は山と積まれた。遠くイラン高原からもたらされたアラブの駿馬タンカーバもそのなかにあった。宮殿は貴賎・貧富・宗派の差なくすべての人々に開放され、その貢物を使い果すための婚姻の宴と歌舞と歌会は休むことなく三十日のあいだ続いた。
各地から集まった語り部のマハーバーラタとラマーヤナの詩の朗読も舞踏と歌会も昼夜なく続いた。多くの学者たちも集まって哲学の論理を交し合った。クシャトリヤは周囲に陣幕を張り宮殿から溢れた訪問者たちに休憩と睡眠のための場所を提供した。贅を尽くした食も飲み物も尽きることはなかった。
婚儀の三十日が過ぎると人々はシッダルタのことを何時しかゴータマと呼ぶようになっていた。ゴータマの名前は広く知れ渡っていった。
第4章 ヤショーダラ
ヤショーダラ は宮殿での生活にすぐに溶けこんで行った。早朝に起きゴータマと共に聖なる水をたたえた池で沐浴をすることが一日の始まりであった。午前中の多くは二人で静かな図書の館で過した。万巻の蔵書の一冊に手を触れるとその書のなかの何処に何が記されているかは直ちに二人の頭脳のなかに湧きあがった。話題は尽きることはなかった。二人での楽しみは詩のしりとりであった。二人の間に取り交わされる言葉は詩であった。
遠くイランの豪族がらもたらされたアラブの名馬カンタカは、鉄よりも硬い蹄(ひずめ)を持っていた。轡(くつわ)をはめようとその首に
手を触れようとした瞬間、カンタカは軽く首を左右に振った。二人の馬丁は吹き飛んだ。どの馬丁も
カンタカに近づこうとはしなくなった。ゴータマが近づくとカンタカは静かにゴータマに従った。カンタカには柔らかな牛の揉み皮の二つの鞍が用意された。一人乗りと二人用のそれぞれとであった。ゴータマが御するとき、カンタカに轡は必要ではなかった。
ゴータマとヤショーダラの午後の多くはカンタカと共にあった。カンタカは二人を乗せ静かな水の流れのように一日に千里を駆けてなお疲れを知らなかった。共に在るとき三者は一体であり尽くすのでもなく尽くされるのでもなく言葉のない言葉の世界にあった。言語以前の世界で
カンタカは二人を乗せ
三者は一体となり、大草原をヒマラヤの山々のなかを疾駆した。乗馬の後に
カンタカの汗を竹ベラで落し川のせせらぎでその身体をブラシで洗うのは馬丁の仕事ではなかった。それはゴータマとヤショーダラの楽しみであった。
やがて、ヤショーダラはカンタカの異変に気づいた。ヤショーダラは
カンタカのなかに
悲しみを感じるようになっていた。ヒマラヤの山頂に宵の明星が懸かっていた。夕食をしながらゴータマがつぶやくように経文の一節を言った。「この家を捨て、かの家をすて」。ヤショーダラは次に続く句を言った。「かくみ聖(ひじりき)は歩きたまえり」。ヤショーダラはすべてを理解した。
ヤショーダラはゴータマに対する言葉を失った 。
寝室は星々と月の光と澄んだヒマラヤの大気に充満していた。ヤショーダラの知識と知恵と
官能はすべて動員された。寝室の窓とカーテンは閉じられ室内は白檀の芳香に満ちた。ヒマラヤもガンジスもすべての天と地
と山川草木は寝室のなかに移行した。ヤショーダラは踵をゴータマのそれにきつくからませた。二人は夜に同化し言葉
を超越した世界に入って行った。天女は舞い山は動き二人はガンジスの尽きることのい清い流れに身をゆだねながら、一つの混沌とな
り深い眠りに落ちて行った。
三日目の朝、窓は開けられ寝室は太陽の光で一杯になった。ヤショーダラはゴーダマの何処か深い底にある絶対的な寂寥を再度確認した。ゴータマの首に腕をからませ口付けをしながらながらヤショーダラは自分もまたゴータマの寂寥を共有しなければならないことを
深く悟った。
星も月もない暗闇の深夜であった。ヤショーダラはゴータマがそっと寝床を出ていくの
を知っていた。彼女は何も言わなかった。やがて厩舎からカンタカの悲しみの心が伝わってくるのをヤショーダラは
聴いた。ゴータマの枕を胸に抱いたヤショーダラ
は喉をつまらせ嗚咽しその目から止めどなく涙が流れた。