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第12章 光と影 (5)

現代詩のジレンマ
 


真剣に真面目に現代詩を志す者にとって
、また詩とは如何なる方向を.目指すべきかを自覚している詩人にとって 、もっとも危険であり.また迷惑であることは 、所謂ディスコミュニケーションといわれる.論理によっては説明し得ないとされている現象に.引き釣り込まれるところにある。  
  
そのような状態に陥らされたとき
、もはや抗弁はなく、為しうることは.負けのスタイルをとるか 、レトリックという技法によって.被虐を訴え続けるか、という方便しかなかった 。また稀に.奇妙な人気に便乗することも可能であろう。が 、それらは.何の解決策をも提示してはいない。問題は、現代詩.あるいは芸術に取り組むことによって 、個人としての.人間の存在の尊厳..あるいは生存そのものを.賭けることを.余儀なくされるという点にある。  
 
つまり
、一人一人の人間の思考とその行動、すなわち.個人の尊厳は、それぞれの個人の.完全に独立したその中枢意志に拠を置くもの .でなければならないのであり 、このことは一見、そのようになっているのだと.まことしやかにうそぶかれて 、意識されながら喧伝されている.体系化された尊大な思想という上澄み液が 、野放図な感情と結びつき.如何にも理知ありげに、トンガリきった争いごとの中核となす.御気楽な.形式思想体系と結びついて 、ドブ泥の.理念なき現実を形成しているのである。もっと.分かり易くいえば 、詩人たちはその中枢意志、つまり 、その存在を.次元の異なる普遍などからほど遠い.後生大事な擬似思想によって 、圧倒的な危険と侵害とに.晒されることを余儀なくされている、というのが.恥ずべきこの列島の現実なのだ。  
 
個々の一人一人が.群という中にあって
.否応もなくその群の動きに巻き込まれ 、自己を放棄し.盲目的にどこか知れないところからくる.風聞に追随し.群の暴力に荷担しているという .明らかな現実(イグノランス)から.すべての個人を解放し 、理知ある人間として.広く個々の真の自由を確立しなければならない。  
 
詩は
、人間と共に.あるいは森羅万象と共にあって、更なる高みに.人間を解放 し得るものであり 、被虐のそれに陥れらるべき.如何なる理由を持つものではない。