<I>
兄貴、音がおかしくなってきている、乱れはじめているんだ。弟が私に耳打
ちした緊迫したささやきだった。
すじ向かいの別室の心電計の音の止んだのはそれから間もなくのことで、
かけつけた医師はペンライトで瞳孔を調べ手首の脈所を確認し頭をたれ
臨終を告げた。奇妙にポカンとして空洞のような白い一刻だった。
病床を取りまく人たちの鳴咽や号泣も悲痛な表情もまるで遠くの風景の中
でのできごとででもあるようで、本当に死なのだろうか、嘘だ死ぬはずがな
い死んでいるはずがない、と私はまだ心の何処かでそう信じているのだっ
た。
涙がどっとあふれ悲しみが脳髄をしびれさせたのは、それからしばらくし
て、美しく死化粧された半顔微笑のおだやかな顔を見た時だった。
<II>
ヴァンクーバーに移住している姉の貞子に国際電話をして、何をどう話して
よいのか判らず、それでも伝えなければならない用件をストレートに、
綾子姉さんなんだけど、若しかすると一ヶ月も持たないかもしれない、ガン
だって医者が言ってる。
私、帰らない、母が死んでも帰らないわ、別れはこの前帰国したとき皆にし
てきました。しっかりとした声がすぐ近くの人と話しているように伝わってくる
のだった。
そんな姉が全く突然に帰国してきて、長い病床にある姉の綾子を見舞い
、
髪を洗ってやり元気づけ、故郷の実家に発った翌日、とても重病には見え
なかった長姉の様態は急変し、細い糸がプツンと切れるように彼女は息を
引き取った。
<III>
仕方がないわね。
・・・・・ うん ・・・・ そう ・・ だ、な
それが通夜の席で何年かぶりで再会したカナダの姉との精一杯でまたす
べての会話だった。あとは言葉で表現し得ない一つの覚悟を互いの目の
光の中に読みとっていた。
カナダの姉は長姉の葬儀を終え、その後十日間ほどのスケジュールをこ
なし、今は自分の国である異国にむけ成田を発った。
<IV>
あれから二ヶ月ほど経て十月の最初の日曜日の今日、何か整理したくな
って筆をとった。目をやればガラス戸ごしに、隣家の庭先ではコスモスの
花々が初秋の陽光に向かって生命の讃歌を謳うようにたわわにも咲き競
っているではないか。