東西南北雑記帳
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詩の翻訳技術あれこれ
声の復活と復権
このサイトがスタート致しましたのは1999年の春先でありました。そもそもの出発は私の英文詩集 "at Dawn" であり "at
Dawn" 以外サイトには何もありませんでした。何年か前、インド大使館の一等書記官公邸でのパーティーで、インド現代詩壇の
大御所的重鎮であります Sitakant Mahapatra
博士から母語との関連において何故外国語である英語で詩を作るのかと問われ、特別に考えてもいなかった質問に対してその説明に窮したことを思い出しますが、これといって特別な理由はなく
Poetry Plaza
の基軸言語は当初から英語であります。英語サイトに日本語サイトが加わりメンバーも増え、その後、時間の経過とともにサイトは充実し現在に至っています。更に中国語版を設けましたのは、昨年の9月1日のことでありましたが、魏剛くんのご支援ご協力により中国語サイトもようやく今月から本格的に動き始めました。これがきっかけとなって、更に一歩一歩サイトが充実し、
いつの日にか中国の優れた現代詩人の紹介をこのサイトから世界に向ってすることができるようになれば、とも夢見ている次第であります。
それから、詩の朗読の音声を採用しましたのは、これも昨年で、昨年の7月1日からであり幸い西欧詩壇において詩朗読マイスターの称号を持つ
セットさんの存在もあり、またフィリスさんのPBSテレビ番組の音声をここに収録することにも成功し、非常に優れた英語サイトとなり得ている
、と考えます。私の英語詩朗読は他の外国人勢に便乗したようなもので、下手な英語ですが一生懸命だけが取り柄、と言い得る
ものでしょう。たまたま、フィリス詩の日本語訳の朗読をお願いしている黒川さんのご長男がドイツのジュッセルドルフに永住されておりまして、この9月から10月にかけて
例年通り数週間ドイツに滞在した黒川さんは、そこの小学校で日本語による日本の文学作品の古典と現代文の両方の朗読を依頼されて読んできた、とのお話でした。一方、セットさんはたまたま日本ESSの名誉会長でもあり、このサイトに音声を収録した当初、英語学習者への貢献という側面を強調して言って
おりましたが、その通りのことであろうと思われます。Poetry Plaza
の第一義は詩でありますが、世界に散在する英語と日本語の学習者に対しても同時にまた実質的に非常に優れた教材を提供しているはずです。こうした功利的な面からも、Poetry
Plaza は更に高度なボーダーレスの世界へと成長して行っていると考えて下さって大丈夫だと思われます。
こうして Poetry Plaza
の歴史を俯瞰しながら、ふと思ったことなのですが、私は余程に教えたり教えられたりすることが不得手であるということで、何事にもつけいきなりに本番で自己流でやってきました。自分自身を珍しい人間であるとすら思います。詩の朗読も例外ではありません。長い間
顧みられず眠っていたフィリスさんのテレビ番組のビデオ・テープを思い出し、苦心惨憺の結果その音声をこのサイトに載せたのが私自身の詩朗読のきっかけです。朗読を開始して何ヶ月かしてようやくそのコツみたいなものを身につけはじめた、というのが現在の私の状況で、
なーるほど詩朗読というこうした分野もあったのか、と身をもって経験している次第です。
こうした体験をふまえて思うことなのですが、自分自身の詩をも含め、詩のなかで往々にして声を忘れていることがある、ということです。ほとんどの場合、詩は文字を媒介としています。書かれた詩は視覚をとおして読み手に伝えられますが、この場合言わずもがな、実際の聴覚は働かず、聴覚的効果は現実の音を想像するという能力に依存させられます。熊谷ユリヤさんのケンブリッジ日記
(Cambridge
Diary)を読んでいますと、イギリスでは詩の朗読が非常に盛んであることが良くわかります。また、せんだって招かれてセットさんと晩餐を共にしました。その折、詩の朗読についてちょっと
した話題になりましたが、歌会始に招待されたことのあるセットさんは、あれは朗読というよりむしろ音楽かな、と言っておりましたが
、私たちのこの国では近年、詩のボクシングなどで盛んになってきていると言われはすれ、いったいに詩朗読にはポピュラリティはあまりありません。
正直なはなし、私自身にとっても詩朗読は馴染みのない世界でありました。
このサイトの日本語詩の朗読を担って下さっている黒川さんも船木さんも朗読には非常に慣れていてどんな文章をも実にうまく読みこなしますが、私の自作詩朗読の場合、時としてその現実の音感から
、ちょっとした部分を修正したい衝動に駆られることがあります。それは、その部分の言葉が観念化してしまってていて肉声を欠いている場合であるようです。
時として奇妙で愚劣な言霊思想は別問題として、本能的な叫びや心情の吐露と高度な形而上的世界とを同時に運搬することのできる言葉を素材として成立する芸術としての詩に往々にして欠けるものは
「声」 ではないか、そんな気がします。ちなみに、セットさんの実弟はオスカー賞を総ナメにした往年のハリウッド映画 「アマディウス」
のなかのモーツアルト役の主演男優であります。兄弟のDNAの為せる技か、英語詩朗読の巨匠(マイスター)
の称号を持つセットさんが共に晩餐を楽しみながら、自分は詩の朗読と演劇とを最高の芸術だと考えている、と言った言葉が私には非常にリアルに響いて、詩における声の復活と復権に現代詩の
本質の根源がかかっているような気がするのです。詩朗読のページをこのサイトに増設して半年あまり、
そこから得られたちょっとした感想を記してみました。
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