東西南北雑記帳    BACK    NEXT

 詩の翻訳技術あれこれ
リンゴの季節と味


言わずもがなのことでしょうが、日本語の基本的な主語・述語の文法構成は他の言語と大きく異なっており、また日本の文化とは古くから輸入された思想を咀嚼し結合させ醸成させて独自の文化を築いてきております。これに関連して、日本の仏教学の権威である中村元がブッダに関する講演録のなかで、サンスクリット語やパーリ語からにしろ他の言語からにしろ、学者が翻訳した詩の文章は非常に判りにくいことを指摘し嘆いています。このことは原文に忠実でなければならないとする学問というものの判りにくさ、あるいは稚拙な直訳調を指摘しているものであり、詩の翻訳の困難さをも指摘しているものである、と私には考えられます。

それで今回は、詩のみに限らず文芸に関する文章の翻訳について、噛みくだいた言い換えといった翻訳の技術はどこまで許容され得るか、ということについて考えてみたいと思います。多少の物議はありましょうがその一例として、私が翻訳したジーン・シャノンの詩 「追憶」について良きにしろ悪しきにしろ正直に書き記してみたいと思います。

この詩の原題は “Summoning” であります。Summon とは「召喚する」 という意味です。子供たちがよく「○○ちゃん、あーそぼ」 と友達を呼びに行くことを言っているのですが、これに対する適切な日本語は見当りません。いったいにジーン・シャノンの詩は題のつけかたが独特であり、翻訳の最初から頭の痛いことでありました。全文を翻訳し終ってから、これを最終的に 「追憶」 とした次第です。

英語原文と私の日本語翻訳文を比較して頂ければすぐに判りますが、原文のなかの Starks, Roman Beauty そして Northern Spy とはリンゴの種類の名前です。私の郷里は古くからリンゴの産地で千曲川沿岸と東頸城山系の麓にはリンゴ畑が多数あり、幼いころから私はリンゴに親しんで参りました。当時、その種類は現在とはまるで異なり、鳴子(なるこ)、国光、紅玉、姫リンゴ、インド・リンゴ、デリシヤスなど非常に種類が豊富でありましたが、その後に品種改良が進み、上記の種類は壊滅し一時は陸奥や富士といった蜜分が豊富な甘い種類とその類似リンゴがマーケットを席巻してしまっていて昔日の種類はまったく見ることもできません。

それで、Starks, Roman Beauty, Northern Spy の訳出にあったって、これをそのままカタカナで日本語に置き換え注をつけて米国のヴァージニア地方でとれるリンゴの名前、としてみたところで致し方がなく何の面白みもない、と私には思われ、これをそれぞれ、なるこ、紅玉そしてデリシャスと言い換えてあります。原文の流れからいって、 Starks は間違いもなく鳴子ないしはその類似種と考えられます(鳴子はリンゴの走りで一番早い初夏には食べられるようになります)が、残りの二つはその色彩感と季節感を考慮しそれぞれ紅玉とデリシヤスとした次第です。

また、訳文の文章からも明確ですが、ロンドン・ブリッジとレッド・オーバーは子供たちの遊びですが、これについてはそのままとしたのは、原文の終節は韻をふんでおりますのでそのままにし訳文も

レッドオーバー レッドオーバー
カムオーバー カムオーバー

として結んだ次第です。

この詩は私の好きな詩のひとつですが、同じようにリンゴの産地で生まれ育った高見優子さんの名朗読をも得ましたことは幸いでした。詩は学問や観念ではなく、その裏に肉声 と生活をともなったものなのだ、と考えます。ここのことは冒頭に記した中村元の言っていることと密接につながっているものだとだと も私には考えられるのです。

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