創設20周年記念番組
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創設20周年記念作品

ゼウスとヘーラー

横川秀夫 詩


この宇宙にカオスが出現する前、世界は乳白色の霧に覆われていた。霧は無限の空間に充満していた。 霧は神々、宇宙、森羅万象そしてまた目には見えない人間の抽象概念をも含み、すべてを内包していた。同時にそれらすべてはそれら自身の形態が全く異なっていたとしてもなお、乳白色の霧自体と同一であった。 乳白色の霧は万物の根元であった。

女神たちの間でのゼウスの評判は良いものではなかった、なぜなら女神たちはゼウスに対して肉欲を感じながらも互いに牽制しあっていたからであった。そんななかで、ヘーラーはゼウスの噂を耳にするたび、眉をひそめるだけで、なにも言わなかった。

ゼウスがヘーラーに近づき手篭めにしようとしたとき、彼女はゼウスの腕の中で身体をねじると、その肘でゼウスのみぞおちをしたたかに突いた。 ゼウスはうずくまった。

ヘーラーは静かにゼウスに言った。
「私を欲しいのであれば、まず最初に貴方はテニスと離婚し子供たちとも別れなければなりません。」
ゼウスはヘーラーの目のなかに無限の母性を見た。その目を見ながらゼウスは言った。
「私は貴女に従うことを誓う」
ヘーラーは厳粛に言った。
「如何なる他の女性とも交わってはなりません。」
ゼウスは言った。
「なんということを、私は貴女だけのもの。なぜにこの私が不実であることができましょうか。それよりも、豪華盛大な結婚式を挙げましょう。」
婚約は成立した。ヘーラーはゼウスの力強い腕のなかに倒れこんだ。

樫の木々の梢は天蓋を掃き清め、黄金色の雨は大気と大地を澄みわたらせ、森羅万象は生き生きと輝いた。大鷲は天空の遙か高く整然と静かにその編隊を展開し警戒の任に当った。

オリンポスの宮殿は正装した男神と、豪勢に競い着飾った女神たちによってあふれた。ライヤの琴の響きと共に小鳥たちはコーラスを歌い、ニンフたちは中空に踊った。

ゼウスとヘーラーがその姿を現す。宮殿はヘーラーの無垢の純白に驚嘆しどよめき、全宇宙はヘーラーの深い輝きに満ちた。女神の中の女神の登場であった。ギリシャの全土でこの婚礼は三百年の間続いた。


結婚して後、ヘーラーは将来の何時の日にかゼウスの決定的な敗北という漠然として重苦しい不安を感じていた。その上、折につけ彼女はゼウスの頻繁な浮気の噂を耳にしていた。ヘーラーはそんな重苦しい胸の内をガイアに打ち明けた。ガイアはヘーラーを慰めたが、これといった具体的な解決策を提示することはできなかった。ガイアは何も言わずに一つのザクロの実をヘーラーに与えた。

宮殿に戻るとヘーラーは、イリスとホーラーに極秘裏、ゼウスの後を付け、目撃した事実について報告するよう命じた。もたらされた数々の報告はヘーラーの嫉妬心と憤りをメラメラと燃え上がらせた。。

ヘーラーはゼウスを宮殿の大広間に呼び寄せゼウスの不実を咎めた。ゼウスは言を左右して彼女の詰問ををはぐらかせた。遂に彼女はセレーネ、ハリスト、ラミア、イーオーなど浮気相手の名前をあげ、逐一彼女たちと如何に淫らでおぞましい行為に及んでいたかについてゼウスを糾弾した。

もはや抗弁もなく、カッとなって我を忘れゼウスはヘーラーの髪を鷲づかみにすると彼女を大広間の天井に吊るした。ヘーラーは簡単にフックを外して下に飛び降り床の上に立った。その瞬間、ゼウスは猛烈な頭痛に襲われた。猛烈な頭痛は百年という長い間続いた。

ある日、ゼウスはヘファイトスに命じ自分の頭蓋骨をマサカリで割らせ、その中を調べさせた。中からは槍と盾とで武装したアテーナが現れた。

ヘーラーはアテーナを自室に呼び寄せた。アテーナはヘーラーの前に片膝をつき右手を左胸の上において座った。ヘーラーはアテーナにアテネ ポリスの統治を命じ、またその手にかってガイアから与えられたザクロの実を渡した。アテーナはザクロの実をアテネの丘の聖なる洞窟の奥深くに安置し、その洞窟の出入り口を厳重に閉じた。

一方、ゼウスは腹心の側近に、ゼウスとヘーラーとは離婚の危機にありゼウスは近々絶世の美女と結婚するであろう、との噂を流布させた。噂は広まった。噂は更に膨らみ、その美女が真紅のドレスを身にまとい宮殿のすぐ前の道を通ると言う。これを聞いたヘーラーは怒りに眉をつりあげ宮殿を飛び出した。ヘーラーは金切り声を発しその美女に飛びかかり真紅のドレスを引き裂いた。ドレスの中から現れたのは土でできた人形であった。

ヘーラーは宮殿に戻った。宮殿にはゼウスが待っていた。二人はまた元の鞘に納まった。

チタノマキアの戦いでクロノスとタイタンの一族を滅ぼしたゼウスは天界を支配する神としての地位を獲得すると共に、新しい秩序と調和とを全宇宙に確立した。神々のなかの神の誕生であった。

然しながら、その後のゼウスに起るであろう事態をいったい誰に予想し得たであろうか。オリンポスの神々と不死の怪物であるギガースとの間には確執が存在していた。結果としてギガントマキアの戦いの勃発であった。

強力な大軍を引きつれてギガースはオリンポスの聖域に侵攻した。オリンポスの地はたちまち危機に瀕した。これに対しゼウスはヘラクレイトスを召喚し、何物をも貫く強力な弓矢を与えた。ヘラクレイトスはその剛力で弓を引き絞り矢を放った。矢はギガースの心臓を貫き、それと同時にゼウスの持つアダマスの鎌が大地を揺るがし大気を裂いて閃いた。即座にギガースの軍隊は壊滅した。戦いはオリンポスの完勝で幕を閉じた。

この戦いの結果、かってクロノスの時代以前は天と地の両方とを支配していたガイアの心のなかにしこりを残した。彼女は我慢をすることができなかった。彼女はとてつもなく巨大で強力な怪物キューポーンを立て、これにオリンポスを徹底破壊することを命じた。骨肉相食む戦いの再度の勃発であった。

キューポーンは大地を切り裂き山々を粉々に砕き天界をも轟音で揺るがしながらオリンポスに迫った。神々は恐怖しギリシャからエジプトへと逃れた。踏みとどまったのはゼウスとヘーラーとアテーナだけであった。

ゼウスとキューポーンの一騎打ちはキューポーンの勝利に終り、ゼウスは一敗地にまみれた。ゼウスは八つ裂きにされコーピリオンの洞窟に閉じ込められた。一方、キューポーンもまた重傷を負い治療のためガイアの元に戻った。

ヘーラーはアテーナとその軍団にゼウスの救出を命じ、ゼウスをヘーラー生誕の地、サモスへと運ばせた。ヘーラーは聖なる泉から流れ出る水でゼウスの身体を清め治療した。 ゼウスは復活した。


重層の黒雲が厚く覆う天蓋の下、森羅万象は不吉な兆しにおののき震えていた。ガイアは極秘裏にヘーラーを自分の宮殿に呼び寄せた。ガイアの部屋は無垢の純白のバラの花々で一杯であった。侍女が緞帳のカーテンを下して辞し出入りの扉をピタリと閉じて去った。

室内は純白のバラから放出される柔かな光と芳香に満ちた。ガイアとヘーラーは互いの心の内を分ちあっていた。ガイアは非常に用心深く遠まわしな言い方で、力それのみでは決して宇宙を支配できない、と話した。ヘーラーはガイアの言うことを正しく理解した。

ゼウスとキューポーンとはその最終的な雌雄を決すべく深く高い天空で再度の対決となった。

アダマスの鎌はひらめき、雷の轟音は天を揺るがし、噴出する炎は走り渦巻き、太陽と月の軌道は支離滅裂に乱れ、天蓋には無数の亀裂が生じ、星星はあらゆる方向に散乱し、全宇宙は崩壊直前の大混乱に陥った。

「モイアー」 というガイアの声をヘーラーは聞いた。ヘーラーは直ちにアテーナを呼びよせた。即刻に重装備をしたアテーナがヘーラーの前に立った。その手にはかってヘーラーから託されたザクロの実が握られていた。アテーナこれをモイアーのもとへと運び自らモイアーの手に渡した。その実はすべての女神たちの英知と平和への願いとが込められた実であった。

実のところ、モイアーは彼女の持つ勝利の果実を与えるようキューポーンから脅迫されていたのであった。彼女はザクロの実を勝利の果実であると偽ってこれをキューポーンに与えた。キューポーンはこれを食べた。キューポーンはたちまちにその怪力を失った。

天空での死闘は一変した。最終的にゼウスはキューポーンをシチリアにまで追い詰め、エトナ火山の下にキューポーンを封印した。ゼウスは全宇宙を崩壊から救うと共に、森羅万象の究極的な秩序と調和とを確立した。世界は再びヘーラーの深い輝きに満ちた。

黄金色の光に輝きながらオリンポスはゼウスの凱旋を迎えた。すべての神々はゼウスを全知全能の神として承認した。

カナートスの聖なる泉で身を清めたヘーラーは自分自身のすべてをゼウスに与えた。ゼウスは ヘーラーの誠実と献身そして貞節、また同じようにその英知と勇気とを深く理解した。乳白色の霧のなかで二人は深い愛のなかへと進み一つとなった。時間も距離も空間も森羅万象もすべてが一つとなり乳白色で一面のカンバスのなかに塗りこめられた。

認識されているかいないかに関わらず、大宇宙のなかで一つのものはすべてであり、すべてのものは一つであり、私たちそれぞれはすべての物質と共に各々完全に独立しながら、乳白色の霧という一つものとして今もなお存在し続けている。