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第4章 記憶 (3)

白珊瑚


伊豆半島の空は限りなく晴れわたっていて

修善寺から土肥温泉にぬける道路のドライブは

対向車とてなく快走が続く


途中、伊豆湾に面し道は大きく左にカーブして
そのふくらみきった曲がり角でハイヤーの運転手は

車をとめてくれ

小休止


二十二年前の昭和四十三年四月十八日
金もなく

二泊三日のささやかな新婚旅行でのことです


の尖端に巨大な黒松一本そびえ
その突端からみる白磁富士の霊峰は

眼前にして目一杯

左の方、海に臨めば
濃い水平線の真一文字、天を区切り

眼下の白涛は奇岩に砕け

絶景。

傍ら近くに老婆の珊瑚化石を商う露店があり

私たちはそこで一番大きな三十センチほどの

波状の深いヒダに囲まれたまっ白な珊瑚を買い求めた


当初一時期は玄関に置かれ
その後ある一時期はサイド・テーブルの上にも

書斎の本棚の上にも移され置かれもしたが

かなりに長いあいだ水槽に入れられ魚たちと共にあった時期もあって

最近は書斎・寝室・客間兼用の増設された十畳間の片隅の

古い田舎椅子を台座にしてその上に飾られていたのだけれど


何ヶ月か前の或る休日のことだった
ガタンと音がして、台座の椅子が倒れ

その珊瑚は私の座の横にころがってきて、見ると幸いにも

ちょっとした小さな破片が飛んだだけ

そんな時の私の一喝のモノ凄さは娘には良くわかっているので

ポカンとして、倒しちゃった、と私の顔を見つめながら。

そこじゃ危ないや、置き場所は俺があとで決める、

めずらしく私は静かに言い

とりあえず元の場に戻し砕片は玄関の水槽に入れるよう

指示をするにとどめた


モノとのつきあいも毎日の生活で二十年もになると
愛着などとおりこしてしまって

どうでもいい自分の身体の一部ないしは

家族の一員みたいな気になってくるのだろう

ちょっとしたそんな事故のあとそれがきっかけとなって

何年も洗われずホコリをかぶり汚れの目立つその珊瑚を

私は丁寧に水道の水をホースで吹きつけて洗った


洗い終って水気を含んだその珊瑚を
居間兼保険の仕事の事務室のテーブルの上に置き

椅子に腰かけじっと眺める


透明を帯びた光り輝く驚くべく美しい無垢の白
彫りの深い複雑な波状模様の

入り乱れた凹凸の陰りと光

それらは

あの二十二年と二ヶ月前の

この化石との出会いの場の風景をも

私に想起させ

私はただただ

その珊瑚虫の無限数の

何万年あるいは何十万年もにわたる

生死の累積の結果としての

この化石に

じっと見入って

身ぶるいする感動を

如何ともすることはできなかった

 

(’90・7・8)