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第5章 長編叙事詩 (5)

ゴータマ・ブッダ                            次ページ へ


ルンビニーのマーヤー像 (伊藤 泰助)
第3章 マハーバジャーパティ

マーヤーが息を引取ったときマハーパジャーパティの腕のなかのシッダルタには/言語以前の無意識 のなかにあった無意識は意識をも包含していた意識は無意識でもあった言語以前の世界は論理を超越した感覚では.なかったシッダルタにとって.言語以前の世界は論理の世界であった。論理とはまた感覚であった感覚はまた 論理を包含して非論理でもあった。意識と無意識と感覚と論理と非論理は.にからみあって シッダルタの内面深くに.記憶を形成した。シッダルタはば無ないし空であった何もなかったのであり何もなかったが故に シッダルタの出発のすべてがそこにあった シッダルタにとっての存在 とは絶対的な遮蔽であり断絶であった遮蔽と断絶はそのまま無意識のなかでの認識であり.不可避性についての悟りであった

マハーパジャーパティも姉と同じように影であったスッドーダナに添う影はシッダルタをも包んでいた。 マハーパジャーパティィはシッダルタの無意識のなかにある寂寥に気づいていた彼女は限りなく優しかった彼女は優しさだけがシッダルタの寂寥に処し得るものであることを良く心得ていた。 スッドーダナもまたそれに気づいていた

太陽の末裔・シャーキャ族にとって、憂愁と悲しみの涙は不文律の禁物であった寂寥と憂愁を取り除こうと、あり余るスッドーダナの財は惜しみなくシッダルタに注がれ ていた三つの宮殿、聖なる水で満たされた三つの池、三色の蓮の花々、白檀の香カーシー製の絹の下着と衣服そしてカーシー製の靴、 大きな白い傘蓋 選び抜かれた侍女たちの献身。

マハーパジャーパティは、どのような物もシッダールタの憂愁を取り払うことはできないとスッドーダナに言った。妃を娶らせようスッドーダナは言った。バラモンの娘ヤショーダラが選ばれた ヤショーダラは十三の言語を正確に読み書き聞きわけ話すことができた彼女はまたシッダルタと同じように古来からのすべての聖典と詩歌に精通し、それらの細部に渡るまでを諳んじていた

スッドーダナはヤショーダナに何が一番に欲しいか、と尋ねた。ヤショーダナは言った、シッダルタのほかに欲しいものはない、ただ図書の蔵が必要であると。古代からのあらゆる聖典あらゆる哲学書そしてあらゆる詩歌集は収集されシッダルタ が育ってきた三つの宮殿 に付け加えられた

婚儀の祝いの貢物は山と積まれた遠くイラン高原からもたらされたアラブの駿馬タンカーバもそのなかにあった。宮殿は貴賎・貧富宗派の差なくすべての人々に開放され、その貢物を使い果すための婚姻の宴と歌舞と歌会は休むことなく三十日のあいだ続いた 各地から集まった語り部のマハーバーラタとラマーヤナの詩の朗読も舞踏と歌会も昼夜なく続いた多くの学者たちも集まって哲学の論理を交し合ったクシャトリヤは周囲に陣幕を張り宮殿から溢れた訪問者たちに休憩と睡眠のための場所を提供した贅を尽くした食も飲み物も尽きることはなかった。

婚儀の三十日が過ぎると人々はシッダルタのことを何時しかゴータマと呼ぶようになっていたゴータマの名前は広く知れ渡っていった

第4章 ヤショーダラ

ヤショーダラ は宮殿での生活にすぐに溶けこんで行った早朝に起きゴータマと共に聖なる水をたたえた池で沐浴をすることが一日の始まりであった午前中の多くは二人で静かな図書の館で過した万巻の蔵書の一冊に手を触れるとその書のなかの何処に何が記されているかは直ちに二人の頭脳のなかに湧きあがった話題は尽きることはなかった。二人での楽しみは詩のしりとりであった。二人の間に取り交わされる言葉は詩であった

遠くイランの豪族がらもたらされたアラブの名馬カンタカは鉄よりも硬い蹄(ひずめ)を持っていた。轡(くつわ)をはめようとその首に 手を触れようとした瞬間カンタカは軽く首を左右に振った二人の馬丁は吹き飛んだ。どの馬丁も カンタカに近づこうとはしなくなったゴータマが近づくとカンタカは静かにゴータマに従ったカンタカには柔らかな牛の揉み皮の二つの鞍が用意された。一人乗りと二人用のそれぞれとであった。ゴータマが御するときカンタカに轡は必要ではなかった

ゴータマとヤショーダラの午後の多くはカンタカと共にあったカンタカは二人を乗せ静かな水の流れのように一日に千里を駆けてなお疲れを知らなかった共に在るとき三者は一体であり尽くすのでもなく尽くされるのでもなく言葉のない言葉の世界にあった言語以前の世界で カンタカは二人を乗せ 三者は一体となり大草原をヒマラヤの山々のなかを疾駆した乗馬の後に カンタカの汗を竹ベラで落し川のせせらぎでその身体をブラシで洗うのは馬丁の仕事ではなかったそれはゴータマとヤショーダラの楽しみであった

やがて、ヤショーダラはカンタカの異変に気づいたヤショーダラは カンタカのなかに 悲しみを感じるようになっていたヒマラヤの山頂に宵の明星が懸かっていた夕食をしながらゴータマがつぶやくように経文の一節を言った「この家を捨て、かの家をすて」。ヤショーダラは次に続く句を言った「かくみ聖(ひじりき)は歩きたまえり」ヤショーダラはすべてを理解した。 ヤショーダラはゴータマに対する言葉を失った 。

寝室は星々と月の光と澄んだヒマラヤの大気に充満していたヤショーダラの知識と知恵と 官能はすべて動員された寝室の窓とカーテンは閉じられ室内は白檀の芳香に満ちた。ヒマラヤもガンジスもすべての天と地 と山川草木は寝室のなかに移行したヤショーダラは踵をゴータマのそれにきつくからませた。二人は夜に同化し言葉 を超越した世界に入って行った天女は舞い山は動き二人はガンジスの尽きることのい清い流れに身をゆだねながら一つの混沌とな り深い眠りに落ちて行った

三日目の朝、窓は開けられ寝室は太陽の光で一杯になったヤショーダラはゴーダマの何処か深い底にある絶対的な寂寥を再度確認したゴータマの首に腕をからませ口付けをしながらながらヤショーダラは自分もまたゴータマの寂寥を共有しなければならないことを 深く悟った

星も月もない暗闇の深夜であったヤショーダラはゴータマがそっと寝床を出ていくの を知っていた。彼女は何も言わなかったやがて厩舎からカンタカの悲しみの心が伝わってくるのをヤショーダラは 聴いたゴータマの枕を胸に抱いたヤショーダラ は喉をつまらせ嗚咽しその目から止めどなく涙が流れた
 

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