詩壇というものが.現在抱えている問題の根元は
、この国の私小説的な.風土にあり
、ゴシップや覗き見的興味が.先に走るところにある。詩に限らず.広く芸術上で
、この国に真に普遍性のある.オリジナリテイが新しく生まれ得ないのは
、おそらく.ここにすべてが由来している、と私は考える。
およそ自由というものが.抑圧された社会には
、その社会の.支配層の堕落と同じように
、未来はない。詩は.自由の擁護者たり得るが.それのみをもって詩の役務であるとは.無論まったく言い得ない。が
、依然として.詩人たちはそうした役務を重く押し付けられているのが.現実のようではある。
このことは
.一人詩人たちのみに課せられたものではない.ともまた言い得るのであり
、問題の根は深いが、この現象を.基本的に自由という問題に限って考えるとき
、そこにこそ.未来に向かって何らかの具体的な光が.見えてくるはずである
、と私は考える。
群を.なさなくとも良いのである
。徒党を.組まなくとも良いのである。誰かが.何処かで.明確に目覚める必要がある
。私は.詩壇といわれるものが.どのように構成されているのか全く知らないし.知ろうとも思わないが
、詩が.人間をより高みに解放するものであり.同時に真の自由の擁護者たり得るためには
、今の詩壇に.それをガッシリと引き受けられる.土壌があるか否かの
、ポイントはそこにある。