フィリス ホーゲ詩集 愛と祈りの彼方  (20)
横川 秀夫訳

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九十二の歳に


夕暮れの時刻は緩慢に思え、絹雲の流れは高く。
今朝ヨットが出帆していったときに湾を覆う太陽からの靄で
私の目はまだ傷く。一日は終わり。
いま次第にラヴェンダーの色を深める空に
星がまたたきはじめ。まるでたくさんのさまざまな色彩。
どれだけ長い間私はこの椅子に掛けていたのかしら?
すくなくともお腹は空いてはいない。だけど大気は
夜に向かって、この海辺では冷え冷えとしてきていて。

「寒くはなあい?」 と私の娘。私にそっくりな声。
「お母さま、セーターを持ってきたわよ。ほらこれ。じきに私
すませちゃうから、そしたらお月さまがあがるのを一緒に見に
来るわ」。 蝦夷松の紫色の稜線の彼方いつものように、
オパールみたいに、白く、何事もないように
ニューポートの上空、巨大に月はあがるでしょう、
そしてやがて青く、まるで何事でもないかのように ー 
月の光は妨げることなく世界をまったくに変え。

かってのギブソン島がそうであったように。梨の花は盛り。
満月。芳香が私をほろりとさせ。彼は私に触れ。だれなの?
吐息よりもやわらかく。ふるえる花びらは私の
歩くあしもとに舞い、風もない中空にゆらぎ、
苑美に炎える夜。声を
だそうとしても、でない ・・・・・ 涙が湧き。青春。
いまや私には言葉もなく。私の口の中で言葉は
乱れ。私の感覚は内にこもり。

「お母さま、私はここよ。私はお月さまがのぼるとき
家の中にいるのがいやなの。あの埠頭の近く -- あそこで見るわ」
移ろいゆく月。肌身にしみておろかな生き物である私には
じっと見つめる以外になにができるのかしら?
半身はこの世で半身はあちら、
打ちのめされ、自分自身への愛から離れ。
またたく間に私たちのすべては変わり。
おそらくは。死は誰にとっても当て推量。

私はどうなるの? もしかすると魂は、青い月の光線が
梨の落ち葉の航跡のように波立つナラガンセットに
砕け入るみたいに、自由になり、
ちりぢりになり、群がり。月は海に花開き。
幻想はかすみ。あまりにも暗くまた明るく。寒く。
光は洗い清め。無。零。深淵。
眠りの中に移行する年月。
衰弱。他人の世話になる時期。私は老い。

 

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