東西南北雑記帳
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詩の翻訳技術あれこれ
辞 典
私が詩の日英翻訳をはじめてから、時間的にはそう長い期間を経過してはいません。数年前に自作
詩の英訳から本格的に始まり、凝り性なのか翻訳作業そのものが楽しく、集中してかなりの量をこなしてきました。プロではない、と言うことは翻訳によってなにがしかの金銭を手にしたことがない、ということです。逆にかなりの金銭をつぎ込んできました。気楽で良い道楽であり、金銭のことを除けば、此処に至るまで実にラッキーの積み重なりであった、と思えます。
私の場合、なにごともいきなりの真剣勝負。それで年数を経るに従い、振り返ってみますと、めくら蛇におじずで、よくやってきたものだ、とも思えます。最近になって、翻訳の専門家の人たちともささやかな交流が始まりました、うれしいことです。翻訳を専門とする人たちは.一体にすばらしい人たちであることを実感している次第です。
英語という言語は非常に合理的な言語である、ということをときおり耳にします。そのとおりのことである、と私にも思われます。一体に英語の表現は、話しことばでも非常に具体的であります。この特質は何処からきているのか、と考えの翻訳作業での最終的なプロセスの一つとなった次第です。
こうした事例は枚挙に暇がありません。つまり音文字である英語単語には、ひとつの単語が実に沢山の意味があることは、私たちが慣れ親しんでいる漢字に基礎を置いた言葉の世界とは、まるで違っている点のひとつだと思われます。
そlれから、日本語は擬音語の豊富さに特徴がある、ということを時折耳にしてきました。このことは日本語には独立した単語としての擬音語の数において多いのであって、統計的な絶対数の比較については無論定かではありませんが、英語にも擬音表現が同じように沢山あることに.最近あらためて気づきました。具体例をいま此処に引けないのですが、英語の場合、擬音が擬音語として独立してあるのではなく、多くは動詞の中に込められています。
このことは何を物語るのか、今の私には判然と説明できませんが、前記の一つ一つの単語の意味の多さという特徴と共に、英語と日本語の違いについて、二つの大きな違いとなっている、と考えられます。いずれにしろ、こうした事柄に気づきましたのは翻訳という実践をとおしてで、それにしても翻訳作業の拠点となってきた.辞書の重要さにあらためて気づいている、というところであります。
パソコンの発達のおかげで、その中にインストールされた辞書類は飛躍的に使いやすく手軽で便利になりました。私は実践ではまだ利用したことはありませんが、翻訳ソフトもラフな意味をつかむのに.結構役立つようになっている、という話もきいております。そうした翻訳ソフトが何処まで発達していくのか、興味のあるところではあります。
それにつけても、百科事典などをも含め、営々として築き上げられてきた辞典類の恩恵には.計り知れないものがありましょう。いったいに私たちはすべからく.過去からの積み重ねの上に立って、現代の豊穣さを享受しています。それでもまだ様々な問題を抱えていますが、こうした無駄にしてはバチがあたるような豊穣さのなかで、私たちは次の世代に何を渡して行くのかは、すべての領域の人々に対して責任が割り当てられている、と考えます。上記、いわずもがなのことでしょうが、この翻訳技術あれこれの一応の結びとして.次に進んでいきたいと思います。
( 2003/11/10)
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