詩の翻訳技術あれこれ
「両眼微笑」 とその背景
草野心平の詩のなかに、
「冬眠を終えて出てきた蛙」
というタイトルの作品があります。本文は四文字のみの
「両眼微笑」
という非常に変ったスタイルの詩となっています。この詩の作られた日付は1976年3月26日と記録されていますが、はじめにこの詩について少し解説をしておきたいと思います。
この頃、草野さんの畑仕事は、草野心平年譜作家である長谷川渉さんともども私の手伝うところであり、折につけ詩人の園生裕一郎さんたちも頻繁に訪れ、仕事の終ったあとの酒盛りが楽しみであったころのことであります。ふとした折に草野さんご自身の口から
「両眼微笑」
という言葉を耳にしてはいましたが、私は特に気にも止めておりませんでした。そうしたある晩のことでした。例によって畑仕事の後、お酒を汲みながらの雑談に花が咲いておりましたが、「両眼微笑」
という言葉について議論が及びました。
仏教では死人の顔の表情を 「半眼微笑」
といいます。これは、死後しばらくすると人間のからだは全身の筋肉がゆるみ、その顔の表情は静かで平穏で半(なか)ば.微笑んでいるように見えることからきている、ということです。話題のポイントは半眼微笑に対するのであれば、両眼微笑ではなく全眼微笑ではないか、という考えが誰かから発せられました。その議論に私は耳を傾けているだけでしたが、聞きながら、私は私の或る友人の父親の葬式でのことを思い起こしておりました。その葬儀でのこととは、・・・・・
友人の家族の宗教はキリスト教でしたので、葬儀の世話役の一人としてあった私には.勝手がいかず葬儀中に粗相があってはならない、と緊張が続いておりました。やがて、お棺の蓋をくぎ打ち固定する前の.献花の儀になりました。それまで仏教での葬儀しか経験のない私は、前の人の作法にならって白い菊の花をお棺のなかに置き、両手を組み頭をたれ祈りを捧げ眼をつむりました。無心の祈りを終って頭をあげ眼をあけた実にその瞬間、私の目とその死人の目とが合ったのです。その両の目がそのとき、ニッコリと私に笑みかけた、と私には感じられ、ギクリとしましたが、その笑みは、実にやわらかく莞爾としたものでありました。
その酒席での全眼か両眼かの議論も煮詰まってきたころ、私は上記の葬儀での話をそのまま話したのですが、その話を聞き終わって、「うん、そういうことなんだ、・・・
全眼微笑じゃあ、目をむいたようなカーッとした響きで駄目なんだ、両眼微笑で決り。」
の草野さんの一言。 これが、「両眼微笑」
の最終的に成立した経緯であります。
後年、このことを振り返って、私はあのときの会話から、詩についての技法上、漢字・ひらがな・カタカナからなる日本語での詩というものの視覚的効果と、日本語自体の絶対的音感について、観念的にでは決してなく私自身の血肉として、非常に根源的で重要なことを学び身に付けた、と考えるようになりました。
( 2004/12/10 )
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