東西南北雑記帳
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人間の真価が問われるとき
「大渾沌より龍たちのぼる」 と 「大理石」
総じて現今は.詩の死んでいる時代..あるいは詩のない時代である.かも知れない、とする私の観測が正しいかどうかは別問題として、今回は
「人間の真価が問われるとき」 と題して、詩の生れてくる背景について.考えてみたいと思います。この題については、当初
「二つの詩」 としようと思ったのですが、「人間の真価が問われるとき」
にしたほうが私にとっては書きやすい、と思ったからです。
此処で言及しようとするのは、草野心平詩
「大混沌より龍たちのぼる」
とフィリス・ホーゲ・トンプソン詩
「大理石」 で、これら二篇の詩の成立した背景とその周辺についてであります。それでは始めましょう。
大渾沌より龍たちのぼる (参照 「大混沌より龍たちのぼる」)
1945年はこの国にとって.未曾有の年でありました。民間人として南京に滞在中であった心平は.この年の7月、陸軍より現地召集され.10日間の強制訓練を受け、「オ前タチハ.日本軍人ノ最下級ノ.ニンゲンデアル」
と宣託されます。言わずもがな、翌.8月15日に敗戦を迎えますが、母国日本への帰還は翌.年1946年3月のことであります。
この1946年3月、時に心平43歳、上海からの帰還船LSTに乗船、博多港に到着しますが、船内に天然痘が発生して、10日間ほど博多沖に停泊させられます。船内は想像を絶した失意、絶望、恐怖
といったものに.深く包まれていたでありましょう。信じられなく驚くべきことですが、「大渾沌より龍たちのぼる」
の詩は、この足止めの停泊船のなかで書かれています。その当時の状況を考察するとき、LSTの暗い船底の狭く混雑した.いきれのなかで.ふっと胸に浮んだイメージが.大渾沌から立ちのぼる龍、そしてまた.この詩を更に味わうとき.その詩の技法をも含めて、あの暗く重たく惨憺たる状況下.瑞々しい自然と美しい人間同士の交流・人間愛を歌いあげ、そして龍を連想する、私は唯々瞠目するばかりです。
本当の詩とは一体に何であるか?の問題を、私をも含め.この一文の読者ともどもへの質問として.此処に提示し、詩そのものの解説めいたことは.抜きにして、一旦.ここでこの節を閉じ、次へと進みます。
大理石 (参照
「大理石」 「ポッター湾にて」)
フィリス・ホーゲ・トンプソン詩
「大理石」 が書かれたのは、この詩人44歳の.1971年のことであります。崇高なまでの芸術意識を歌い上げた詩となっています。実は、この詩には.姉妹あるいは前奏篇とも言える
「ポッター湾にて (Potter's Cove)」 という詩があります。「ポッター湾にて」
はおそらくは.1968に書かれている.と私には考えられますが、40年も前のこととて.詩人本人の記憶も定かではなく、ただし
「大理石」 の1971年は間違いのないところであろう、と私には考えられます。
1967年のこの年、詩人は4人の子供たちをかかえて離婚します。「ポッター湾にて」
は、その離婚の後に書かれました。離婚という破滅、そして精神の戻るべきところ、詩人にとってのそれは、生れ育った米国東海岸ニューイングランドであり、なかんづく、幼い頃すぐ近くに.あのなつかしい祖母が住んでいた、ナラガンセット湾のロードアイランドにある.ポッターという小さな入り江でした。「ポッター湾にて」
はフィリス詩にはめずらしく.恐ろしいほどに暗く重たい詩となっています。自棄、悔恨と底なしの失意、やり場のない怒りと憎悪。言葉は重苦しく複雑に屈曲し、原文はほとんど翻訳の不可能さをもって.私の身に迫りました。翻訳者にとってのせめてもの救いは、最終節の、カモメは大きな翼をはためかせながら.依然として.大海原のかなたで呼んでいる、とする部分でした。
この
「ポッター湾にて」
の作品のはじめに、"フジツボの点々こびりついた滑らかな泥板岩"
として泥板岩が登場しています。然し恐らく間違いもなく、彼女にとってこの場合の泥板岩は.生れ育ったニュー・イングランドで幼いころから親しんできた泥板岩に他ならず、「大理石」
のなかの意識された "泥板岩"
のそれではなかったはずです。然しながら、小さなポッター湾(入り江)
のそとの大海原のかなたで.確かにカモメは呼んでいました。3年という歳月の後、この気丈な詩人は.小さなポッター湾の泥板岩を
「大理石」
という作品によって再び詩の世界に送りだしました。泥板岩は日常の生活、大理石は芸術。血と汗と涙とが見事に結実し、崇高なまでの芸術意識を歌い上げた.純粋詩
「大理石」 が.此処に生みだされました。
人間の真価
私は1998年10月号の
「東西南北」 のなかで、フィリス ホーゲ トンプソン
との初対面の印象について.次のように記録しています。
"私は我孫子に赴き、フィリスさんに会った。彼女が滞在している
ジェイムス・ジョイス記念館の一室に招じ入れられ、互いに最初から構えることなく.気さくに話ができて、コーヒーを何杯か飲みながら.およそ一時間をオーバーして.二人で話した。
彼女は何の変哲もない極めて常識的な人であった。私は草野さんの身近な取り巻きの一人として.昭和四十一年から平成元年のその逝去までの間、折につけて草野さんご自身と.その周辺の人々とに接してこれたが、およそ草野心平という人物ほど世評、その私生活において.誤解されて解釈されている人物は少ないのではないか、と私は考えている。草野心平は.偉大な常識人であった。むしろそれを取り巻く.詩壇とか文壇の人たちの言動のほうが私には奇矯に見えた。
私がかってそうした草野心平に抱いていたと全く同じ種類の.心のオープンさと常識性といったものを.最初の挨拶からフィリスさんの中に嗅ぎ取っていたことは.事実であった。"
私は両詩人からたくさんのことを学んできました。けれども不思議に.詩そのものに対する事柄について.話し合ったことはまったくなく、学んだことは.こころ同士が接触しあうところから生ずる.詩の精神あるいは詩の魂についてであったと思われます。事実、不思議な事に、両詩人と私の間には.詩そのものに関する会話は.まったくと言ってよいほどありませんでした。
上記に二つの詩を掲げましたのは、それらを対比・対照する意図からではありません。この一文が拙くとも、読者に対して筆者の願うところは、共によく味わい、詩の根源について、詩の精神について、詩の魂について互いに考えるための一つの対象として、ここに記録した次第です。
(2005.3.21)
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