東西南北雑記帳
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詩の翻訳技術あれこれ
詩の翻訳の本質

  以前に、私たちの名詩朗読喫茶室にヘルマン・ヘッセの 「霧の中」 の朗読を収録した際、高橋健二による訳文の原訳と定稿としての新訳の相違についてちょっと触れましたが、掲載した新訳と私の暗誦している旧訳を以下に対比 してみます。

新訳 (定稿)

不思議だ、霧の中を歩くのは
どの茂みも石も孤独だ、
どの木にも他の木は見えない。
みんなひとりぽっちだ。

私の生活がまだ明るかったころ、
私にとって世界は友だちにあふれていた。
いま、霧がおりると、
だれももう見えない。

ほんとうに、自分をすべてのものから
逆らいようもなく、そっとへだてる
暗さを知らないものは、
賢くはないのだ。

不思議だ、霧の中を歩くのは
人生とは孤独であることだ。
だれも他の人を知らない。
みんなひとりぽっちだ。

旧訳  (私が記憶しているもの

不思議だ、霧の中を歩くのは
どの
(やぶ)もどの石も孤独だ
どの木にも他の木は見えない
みんなひとりぽっちだ

私の生活にまだ光があふれていたころ
世界は友だちにあふれていた。
霧が降りてきた今は
何ももう見分けられない。

自分をすべてのものから
逆らいようもなく、そっとへだてる
暗さを知らないものは
賢くはないのだ。

不思議だ、霧の中を歩くのは
生きるとは孤独であることだ
だれも他の人を知らない。
みんなひとりぽっちだ。

  高校生のころに出会ったこの詩(旧稿)は学生時代を通じてずっと私と共にありましたが、その本も何時の日にか失くしてしまい、社会にでてしばらくしてから再び買い求めました。その買い求めたものは新稿で、一読して非常にがっかりした記憶があります。今回このサイトに収録するに当り、新稿に従いましたが、そしてその相違は私にとってさして気にはならないと私は書き記しました。けれどもそれは詩の翻訳を手がける者としての記述であって私自身の本音ではありませんでした。

 一体に言語には非常に不思議な部分があり、それは、私たちは私たちが慣れ親しんできたものに拘泥するという私たちの性向に由来しているように思われます。そうした性向はどこからきているかとすると、言語とは一面において論理ではありますが反面において心ないし情であるという更に大きな一面に起因しているように私には考えられるのです。上記のどちらを採るかは読者の判断に委ねられますが、訳者・中島健二を批判するものでは決してありません。

  それで、今年になってサミュエル・ウルマンの 「青春」 を同じサイトに掲載しましたが、英語原文を私自身の朗読によって付け加えました。その理由は英語原文の下に注記してあります。 けれども、日本語版のなかに英語の朗読を敢えて混入させたその本意は、原文の音の響きを伝えてみたい、というところにありました。詩とは論理を超えた 心であり精神であり魂である、とする考え方からであります。

 それで、少し話題を変えます。中国本土に住む魏剛くんに私の詩集 at Dawn の中国語訳を委ねてあり、彼とは月に 何度か電話で話し原文の解釈の微妙な点について話しながらやっております。今までに彼によって翻訳された私の作品は、数えてみましたら何時の間にか30篇を数えており、一冊の詩集を編むに十分な量になっておりました。それで中国での出版を考え始めていたのですが、この件に対しての彼の反応は、中国での出版事情は非常に難しく、検閲的なものもあるし、それよりも何よりも名も知られていない自分の訳では通用しない、大学の偉い教授先生の推薦みたいなものも取らなければならないし、大変なことなのですよ、とのことでありました。「うん分った、だけど魏さん、そういう考え方は詩の場合根本的に間違っている。詩にはそうした権威主義的な考えは本来ないしそんなものとは無縁なんだ。作者であるおれが君に託したのだから、上手下手の問題じゃない、それでいいんだ。」  私はそう答えた次第です。黒龍江省で生れ育った彼は例えば、三歩下がって師の影を踏まずといったみたいに、北方のストイシズムとでもいった考えをきちんと持っている礼儀正しい人物で、本来の日本人よりもはるかに日本人的なところがあり、性格的には私の対極にあります。それで私は彼の考えに従ってこの目論見を中断した次第です。なぜなら、従来どおり開かれた世界であるインターネットで既に発表してきているものですし、これからも続くものであるからです。

 私の場合、学術的な立場から遠く離れて、かなりの数と量の詩の翻訳を手がけてきています。翻訳の対象である詩作品もこれといった共通のテーマはまったくにありません。行き当たりばったりではなく、無論そこにはそれぞれの動機があってやってきました。振り返ってみますと、観念からではなくまた風評におもねての選定ではなく、なにかしらの縁があっての上からでした。それで、こうした経験を経て、詩の翻訳とは手練手管ではない、という一言につきるかもしれません。それと、非常に不遜ですが、時として翻訳された作品の方が原作よりもより良くなっている場合もありうるのです。原文を味わう醍醐味などとは良くいったもので、文字からの視覚を通して頭のなかでこね混ぜた抽象概念に酔っている場合が多く、そこには詩の根源である肉声が欠けているのです。詩は学問ではありません。詩は肉声の上に立った心であり精神であり魂なの だと最近、私は考えるようになりました。

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