東西南北雑記帳
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私の長編叙事詩

 私には長い年月に渡ってひとつのテーマがあり、それは五篇から成る長編叙事詩シリーズの完成であります。そのことについて今日は少し記しておきたいと思います。

あれは何年か前のことでありましたが、アメリカのアルバカーキーに赴き、ニューメキシコ州立大学OBの詩人たちとの研究会に出席の折、ホテルに滞在中の二三日をかけて 「At Albuquerque」 の詩をものしこれをその会合で発表しました。(このときのことはこの東西南北雑記帳の何処かに記されているはずです)。それで何かの折に、前衛的な詩を書き続けていたMery Rising Higginsという女流詩人との話で、自分には今までにアレキサンダー大王、ジンギス汗そしてアッチラについての歴史叙事詩があるが、次にシーザーとブッダをやりたい旨を話したのですが、そのときヒギンズ女史の 「ウワーォ」 といった言葉を今でも記憶しております。この話はたちまちに仲間うちに広がったようで、その日の研究会は私の 「In Albuquerque」 という出来立てホヤホヤでぶっつけ本番の新作詩の発表もあったりして、非常に高揚し盛りあがったものとなったことは確かなようでした。それで、私がそれまでにものした三篇の歴史叙事詩に加えて四作目の 「クレオパトラ」 ができてきた経緯を記しておきたいと思います。

第一作目 の「アレキサンダー大王」 については思い立って一日二日で出来てまいりました。これは手書き(あるいいはワープロによってであったかもしれません)による個人誌に記録し友人たちに送ったものですが、読んでくれた学生時代のラグビー部の同期仲間で往年の名ウイングでならした友人との電話で、よう書けとるやんけ、もっと勇壮なものをいっちょやってみてくれんかい、との旨の話でした(ちなみに当時、私は右バックロ ーのポジション)。私の作る詩などは誰にも相手にされない自分自身の道楽ごとである、と常々考えておりました(今でもそう思っています)が)、この言葉はどうやら私に大変なインスプレーションみたいなものを与えてくれたようでした。よっしゃやったるで、ということになり、その結果、まもなく何の前ぶれもなく一週間もしないうちにジンギス汗がほとんど推敲も不要に一気に書き抜かれました。これは自分にとっては会心の作と思われました。

ここに至って、世界史のなかに題材をとっての叙事詩の構想がなんとなく芽生え始めたようでした。おそらくは十数年あるいは二十年も前のことかと思われます。秦の始皇帝をやってみようかな、と中国史についての文献を楽しみながら読んでてみましたが興が沸かず、万里の長城が作られるきっかけとなった匈奴に注目してみた次第です。それで匈奴についても調べてみたのですが、どうも匈奴とはにヨーロッパを震撼とさせたフン族に繋がるのではないか、と考えられましたのでヨーロッパ史のなかでのフン族についても調べてみました。この点に関してはどうもヨーロッパ史と中国史の間に何か谷間があるようで、学説では関連があるともないともつかないとのことであって定説がない、との結論を得た次第です。これは面白い、ここに詩がある、よーしいっちょやったる、と思いました。この匈奴に関する詩 匈奴族の末裔」 が完成するまでには私の記憶が正しければ一二年ばいし二三年はかかっているはずです。それで、この詩にまつわる思い出をも少し記してみたいと思います。

社会にでてから私は貿易の仕事に長く携わってきており、更に海運界に転職しオイル・タンカーのシップ・ブローカーとしてやっておりましたが、このシップ・ブローカー時代の経験はドキュメンタリー小説として書かれておりますが、まとめるとかなりの長編になるものでした。が、当時はそれによって金を稼ごうなどという気持はまったくありませんでしたので、手書きのコピーあるいはワープロの文章を少数の友人知己あてに送っておったものです。そんな次第でありましたので、原稿もすっかり散逸してしまっており手元にはまったく残ってはおりません。けれども、40代の数年間のこの時代は今思いかえしてみても最高に楽しかったもののように思われます。中国系アメリカ人である Billy T. Lee とはこの時代からのつきあいであり、今でもその友情は緊密に続いております。

それで、フン族といえばアッチラに直結しますが、フン族と匈奴を同一とする考えから少しずつ構想が進みだしていた頃、二三の個人的な所用ががあってアメリカを訪れ、ニュージャーシーに滞在中は数日間彼の豪邸でゆっくりと過させてもらっておりました。紹介しておきたい George Panapoiotopolos という人物がいるから、との彼の話から久しぶりで一緒にマンハッタンに赴いた次第でした。マンハッタンの目抜き通りの寿司屋で日本酒をやりながらランチを楽しみましたが、ジョージもビリーも私も年齢差はほとんどない同世代で、話に話が弾みました。そんな話のなかで私は次の構想としてフン族のことを話した次第です。

「フン族だなどと、おーいやめとけ。何故なら、そーんなことを書いたら君の名を汚すことになるだけなんだ」。ジョージの真剣な表情での言葉でありました。彼は第二次世界大戦の末期の幼少時にギリシャからアメリカの逃れた男であり、コロンビア大学の哲学修士でありましたので、後になって彼のその言葉の真意が判った次第です。そのとき「ふーん。」と私は答えただけでありました。三人ともしたたかに熱燗の日本酒をやり、ジョージが一番に酔っていて、あれやこれやの話に話が咲いて食事を終り外にでてそぞろ歩きのジョージの足も私の足もふらついておりました。歩きながら逍遥歌をつぶやくように歌っていたジョージの姿を今でも思い出します。

が、反発をくらうとかえって闘志が沸いてくるのが私の持ち前の性格なのでしょう。散文詩形式が私のプロットに沸き、それから二三年かかって 「匈奴の末裔」 を書き終りました。

次に、シーザーに取り組み始め、ローマ史やガリヤ戦記なども読んでみましたが、一向に詩想が沸いてはきませんでした。調べれば調べるほどにシーザーという人物はどうもパックス・ロマーナの時代的栄光を背にした何処にでもいる軍人であり政治家であるにすぎないと思われ、行詰ったというよりも取組むに値しない、と考えだしておりました。それで注目したのがクレオパトラであります。予定のシーザーを変更してクレオパトラで行く旨を Poetry Plaza のメンバーたちにも知らせた次第です。シーザーを宣言してから何時の間にか四五年はゆっくり経っておりました。

何となくクレオパトラに決めてみたところで、一向にこれといった具体的な構想は沸いてこず、ただ光のイメージは持っておりました。あてもなく光そのものについての物理学に関する書籍を濫読していた次第です。それで、光に関する特集を組んだある科学雑誌のなかで、光の速度は一定ではなく自転車くらいの速度に減速されたことが理論的にも実験的にも証明されたことを知り、これは私にとって大変なショックでした。それで一気にやる気というか光の構想が盛り上がった次第です。実にそんななか、このサイトの重要なメンバーである高須賀孝子さんの虹の光芒という一枚の写真に出会い、あまり聞きなれない言葉でしたので彼女に電話を入れて尋ねた次第です。彼女の的確な説明にそれまであった私の光のイメージは爆発的に拡大して行きました。

かくしてクレオパトラは書き抜かれましたが、シーザーについての構想を最初に話した相手である Mary Rising Higgins は今は亡く、振り返ってみますとあれからクレオパトラの完成まで実に七年という長年月を費やしております。時間の経過の早さと重たさに今更ながら気づく次第であります。

なお、クレオパトラの詩のなかにエルブスという地名みたいな固有名詞がでてきますが、これはギリシャ語で黄泉の国という意味です。古代ギリシャでは人間は死ぬと地下で生きている(地獄の思想)と考えられておりました。言わずもがなの事柄かも知しれませんが付け加えておきます。

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