東西南北雑記帳    BACK    NEXT

詩の翻訳技術あれこれ
詩の定型についての雑学的考察

以前に、第5回目 「自作詩の翻訳」 の章のなかで私は自作詩の 「冬至 (Winter Solstice)」 について触れました。そのなかで欧米詩におけるソネット形式について触れられております。私自身、詩の定型にはほとんどk興味はありませんでしたので、そんなものか、といった程度でソネット形式とは如何なるものであるのかについて調べてもみませんでした。今回、定型詩について他にも考えることがありましたので、先ずこの形式について手許の百科事典で調べてみました。

この形式は13世紀にイタリヤで成立し、ダンテの「神生」のなかにその初期の形式が見られ、その後、言語の相違を超えてヨーロッパ全土に広がり、変遷を辿りながら今日に至ってもなおその生命力は失われてはおらず強く生きているようです。形式は、等韻律の詩句を四行詩ニ連,三行詩ニ連の順に並べるもので,何種類かの脚韻を置くことがその骨子となって おり、何故か抒情表現には極めて優れた形式になっている、とのことです。この説明文を読む限り、漢詩における形式性にも似てかなりに複雑なようにも思われますが、脚韻という習慣のまったく持たない日本語詩への適用はおそらく不可能でありましょうし、 リズムもイントーネーションもに異なる日本語詩のなかでそれを真似し採用てみても、学を衒うだけの話でであまり意味のないところでありましょう。

一方、漢詩における起・承・転・結の基本的な展開は散文においても非常に有効な法則性であるように私には思われるのです。この起承転結の法則は西洋音楽の交響曲の構成にも共通しており、面白い現象ではあります。それで、漢詩の定型には二つあり、それは絶句にしろ律詩にしろ五言と七言であります。このことは日本語の五七調と関係があるのかないのか、私は詳らかにはしませんが、これもまた面白い現象ではあります。比較言語学では何らかの因果関係をそこに認めているのかどうか、といった興味も沸きます。

それで、この五言に関連してなのですが、フィリスさんはそのの詩論のなあかで、ご自分の詩は強弱五歩格に基づいている、と記していることを思い出しました。この強弱五歩格という耳慣れない単語の具体的な意味については、もう十年も前にその文章を翻訳したときに文献に当って調べてみましたが、複雑な説明でどうも良く判らず、今では忘れてしまっております。私の手で翻訳されてこのサイトに収録されているフィリス詩を読んで頂ければすぐにお判りになると思われますが、フィリス詩における行替えの一つの特徴は、一行の文章が途中で二つに 分割されて異なった次の連にまたがっている場合が非常に数多く見られます。作者本人に確認をしてはありませんが、この行替えの特異性はおそらく、強弱五歩格というリズムに由来している、と考えて間違いはなさそうです。

私は過去に漢文の詩をも作ってきましたが、詩の定型性についての分析はどうも漢詩や西欧詩のほうが日本語の詩の場合よりもはるかに複雑であるように思えるのです。これはことの良し悪しの問題ではなく、詩の翻訳にまつわる話として は、また現象としては面白。と思います。私の場合行替えは自分の言語感覚のリズムに従っていて、それに対してあまり注意を払ったことはありませんが、リズム、論理のつながり、そしてイントーネーションの切れ目に従って、あまり考えず感覚の為すところに従ってやっております。フィリス詩の場合もそれと同じで、一連一連を区切るのではなく、次の連へと論理とリスムを繋げて行くための有効な技法となっている、と考える次第です。

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