東西南北雑記帳
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詩の翻訳技術あれこれ
日本の現代詩

以前 にリトアニアから来ている友人とリトアニア詩について話したことがありました。「ああ、リトアニアにはあまり良い詩はほとんどないよ」 と返事は素っ気もありませんでしたが、それでも当時リトアニア大使館のサイトに掲載されていた詩人の名前のなかから二人の詩人については、まあ読めるかな、と言っておりました 。その詩人の名前も今は忘れてしまっています。長い間放置しておりました「リトアニアからの叫びと祈り」 の元本である "Lithuanian Poetry"  のページはその後、大使館のホームページから離れ今は独立して単独のホームページとなってしまっておりますが 、当時と比べると更に内容は充実しているようではあります。それは兎も角として、翻訳作業とは実に楽しいものであることを再認識している次第です。そうした楽しさだけが現在の私をつき動かしているようです。

本日ジョナス・アイスチスの残り三篇を訳し終り、これでジョナスアイスチスを全部訳し終ったことになり、これまでに全部でちょうど四十編を翻訳しましたが、振り返って 「何を」 言っているかという観点から、リトアニアには非常に優れた作品が沢山あることに気付くのです。多くの知識人・芸術家を国外追放されまた自由を束縛されたなかで、それらの多くは風景詩ないし田園詩のなかに 、それでも必死に思いを押し殺した表現のなかに込められています。ジョナス・アイスチスの 「パルチザンの葬儀」 はそうした背景を踏まえ 、ドラマチックで分かりやすく典型的なものでありましょう。 この詩人は1904年にリトアニアの中部地方で生れており、1940年前後のソ連軍の進駐時には30代後半の一流知識人として一番厳しい時を余儀なくされた人々のうちの一人です。難を逃れフランスへと移住してグルノーブル大学で仏文を研究し、1946年にアメリカへと亡命しております。

こうした観点から、私たちの日本の現代詩は世界のなかでどのような位置にあり、またどのような評価を得ているのかな、と思った次第であります。何だかだと言いながらも、私たちは恵まれたなかで生活をしている、と言えるでしょう。そんななかで、日本の現代詩人たちは何を考え何を表現しているかについて、私たちは良く考えてみなければいけないのです。「何を」 表現するかについて日本の現代詩は世界に提供し得るものを持っているかどうか、大いに疑問とするところでありま しょう。 詩芸術という大局を踏まえ、真面目に考えてみる必要がありそうです。


蛇足ながら付け加えさせて頂きます。、リトアニア語から英語に翻訳され更に日本語へと訳されているている私の  「リトアニアからの叫びと祈り」  の英語原文に興味をお持ちの方は "Lithuanian Poetry" http://members.efn.org/~valdas/poezija.html に掲載されている原文をご参照ください。

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