東西南北雑記帳    BACK    NEXT

詩の翻訳技術あれこれ
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

a蕉の終の句であります 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」 は一般に詩歌に興味のない人たちの間でもおそらく百人中百人は知っている句でありましょう。五七五の定形に季語を加え俳句の法則を確立して後芭蕉没後 三百年を遥かに超えた現在でも衰えをしらず、俳句に親しむ人々の数は現代詩のそれを遥かに上回っているのではないでしょうか。

松尾芭蕉の終の句とされ字余りを含むこの句は、その後の俳句の発展と変遷につぃて非常に象徴的な側面を持っています。この件については後で触れるとして、ここで私が注目しますのは、この句の英語訳なりその他の外国語にどう翻訳され手紹介されているのだろう、という素朴な疑問についてであります。理由は、私にはこの句の翻訳は不可能であると考えるからであります。

問題のポイントは上の句 「旅に病んで」 の字余りにあり、芭蕉はなぜ五音の 「旅に病み」 としなかったのだろう、という素朴な疑問でありました。通常、句会などでは一句を二回繰り返して朗読されますが、これは短詩であるがためにその朗読に関しては正確性を期しているからではないかと私は想像しています。

それで今回この一文を記すにあたり、何回か両者を音読してみましたが不思議なことに正直な話、、「旅に病み夢は枯野をかけ廻る] と五七五の定格に従って読んだほうが私にはすんなりと心のなかにしみこんでくるのです。言語は時の推移変遷と共に変化して行きますので、そのためであるのか、それとも俳句とは五七五の定格であるとする私のなかにある潜在意識がそう思わせたのかとも考えてみましたが、どうもそれだけでは腑に落ちず更に考えてみました。

結果一つの推測に至った次第です。をれは、耳から入ってくる性音声情報と視覚つまり文字を通して入ってくる情報は明らかに違うのです。私たちの脳のなかでは文字から入ってくる情報のほうが音声によるそれよりも明らかに複雑かつ総合的に処理されています。芭蕉が敢えて字余りの 「旅に病んで」 とした理由はここいら辺にありそうです。最晩年の芭蕉は視覚的効果をも配慮していたのではないか、と考えましたら私自身の腑に落ちた、という居次第です。

言わずもがな、「旅に病み夢は枯野をかけ廻る」 と [旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」 との間の差は非常に大きいのです。私はすでに尾崎放哉の俳句と石川信夫の短歌をそれぞれ百一篇ずつ英訳しこのサイトの英語版に発表しておりますが、これらの翻訳作業をとおして私は私なりに俳句短歌の翻訳のコツを掴みました。けれども、芭蕉のこのポプイラーで有名な芭蕉の句を翻訳する術を持たない、とするゆえんであります。

詩表現における視覚と聴覚についてのお話になっておりますので、関連してここでちょっと付け加えますが、これもまた詩に興味のある人であればほとんど誰もが知っている草野心平の 「冬眠」 と題する詩について言及したいと思います。活字になって出版されている本文はまん丸な 「●」 であります。それはそれで宜しいのですが、謄写版による原本には独特な字体と呼応いしあいそれなりに唸らせるものがあります。短冊や色紙は広く親しまれている習慣ですが、無論これは視覚により無意識裡に私たちのなかに取り込まれているものでありましょう。

さて、この一文の最初に記しました芭蕉の終の句 「旅に病んで」 はその後の俳句の発展と変遷につぃて非常に象徴的な側面を持っている、と私が考えますのは、荻原姓泉水による口語自由律俳句の登場によってであります。芭蕉の偉業によって確立され 三百数十年を経てなお一般庶民にも広く親しまれてきている俳句にもさまざまな紆余曲折もあったでありましょうが、それが今日まで継続して広く親しまれている、という現象は極めてマクロ的にみて、この 「旅に病んで」 の字余りを含んだ終の句のなかにある芭蕉の精神ないし芸術魂に起因している、と考えても間違いではないでしょうか。

姓泉水とその主催した層雲についてはいつの日にか気の向いたときに稿をあらためたいと想います。

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