東西南北雑記帳
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ひとつの解逅

私が一九七○年代半ばの三○才ころに椎間板ヘルニア手術のために入院中のことでありました。同じ手術のため入院中にの隣のベッドの老人は俳句をよくする方でありまして、その入院中にできた作品を見せて下しまして、言ってみればちょとした俳句の手ほどきめいた話をして下さいました。私は当時、俳句に対する興味はあまりありませんでしたが、理論ではなく実作に関するこのときの話から俳句とは以外に真剣なものであり亦かなりに複雑な思考がその裏にあることを認識し、その老人の俳句に対する精神を学びとったことを思い出しだました。

その入院中にたまたま私の親しい友人の結婚式があり、入院中のこととてその式に無論出席することはできませんので、俳句での祝電を送ることを思いたちました。手術後のリハビリで院外に出て病院の裏側にあるグラウンドまでの数十メートルの道のゆっくりとした往復の歩行練習中、あるいはベッドのなかで、それでも数日かかったと思いますが、結果、できたのが次の二句でありました。

荒れ野にも耐えて開くや月見草

コスモスの花たわわなり陽の光


私にとってこれは最初にして最後の俳句であります。いま振り返ってみますと、これはその老人の枕元に置かれていたノートブックにしたためられた入院中に作られた幾篇かの主として雑草をテーマにした草稿をちょっとした解説めいたコメントをお聞きしながら読ませて頂きましたが、要は雑草は踏まれてもくじけない、といったテーマに触発されたものであることに思いあたります。

人との触れあいには不思議なものがあります。今はその老人の名前も忘れておりますが、その顔貌は今での私の記憶に残っております。けれども、その経歴などについてお尋ねしたこともありませんでした。私はこの文章の冒頭部分で 「手ほどき」 といことばを使っていますが、これを 「伝授」 という言葉に置き換えたいと思います。伝授とは具体的に手取り足取りして教え学ぶのではなく、ものごとの真髄ないしは精神を伝えるものであると思います。理論理屈ではなくいのです。

私はこれによって俳句を作る方向には行きませんでしたが、このことによって触発され詩歌の道に入って行ったとはまったくに言えませんけれども、私が現代詩を 自分なりに模索しながら作りはじめた頃に符合していることは確かであります。

私にとってこのことは、七十歳を超えた半生のなかで幾つもの解逅の恵まれてきていますが、そのなかの重要なものの一つであったことに間違いはありません。

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